久しぶりに電車の座席に座れた。会社の鞄を大事に膝の上に抱えながら電車独特の細かい振動に身を委ねる。
残業が長く続いたせいで心身共に疲れていたが、帰宅ラッシュの時間を大幅に過ぎたのも有り電車の中は空いていた。ラッシュに揉まれなかっただけ良しとしようと考えていると、電車の揺れが不規則になる。
ブレーキがかかって電車がゆっくりとホームへと滑り込む。周囲がざわつき始めるので一体なんだろうと駅名を見ると、乗り換えに良く使われる大きな駅だった。俺が乗り換えるのはあと二つ先の駅だなと計算している間に電車が止まってドアが開く。
俺の周囲に居た人達が次々と下りて行き、それと同じ位の人達が電車へと乗り込んで来た。それと一緒に外の空気が流れ込んでくる。
その中に、僅か、花のような匂いが混じっていた。
生花独特の新鮮な匂いという事は、花束を持っているような人が居るのだろうか?こんな夜中に?疑問に感じながら何気なく周囲を見渡すがその様なものを持っている人は見当たらない。
気のせいだったのかもしれないと思ったその時、再びその匂いが俺の前を通り過ぎていった。しかも先程よりも更に強さを増している。
やはり花束を誰かが持っているのだろう。人の影になって見えなかったか俺が見落としただけで、きっとどこかにあるんだ。そう、結論付けた時だった。
ふわり、と。
その匂いが俺の鼻腔をくすぐる。それと同時に俺の隣に一人の女性が座った。ドアが閉まり、ゆっくりと電車が動き始めて最初は遅かった振動がいつもの規則的な揺れに変わる頃に、俺はその人がその匂いの主だと知る。
女性の居る方から匂いがするのだ。しかも彼女が僅かに動く度に匂いがする。そんなにハッキリとわかる程の匂いならば生花ではなく香水だと思うのだが、香水独特の揮発的な匂いは存在せず、あくまでも生きている花独特のあの瑞々しい香りをその女性は纏っていた。
花屋にでも勤めているのだろうか。その指先を盗み見るが、綺麗な指先や手の甲には水仕事でできる手荒れというものが見受けられない。こんなに花の匂いを纏わりつかせる程仕事をしているならば、手荒れが無い方が逆に違和感を感じてしまう。
しかし俺の興味が続くのはそこまでだった。そこまで疑問視するほどのものでもないし、何よりたまたま隣に座った人をじろじろ見るのも不躾だろうと思ったからだ。
まるでタイミングを計ったかのように電車がブレーキをかけ始める。後一つで降りる駅だとそう思った時だった。
「わかりませんか?」
そう微かな声で呟かれ、俺は思わず聞き返しそうになった。ゆっくりとホームに滑り込む電車と共に隣の女性が立ち上がる。その口元に僅かな笑みが浮かんでいたのは俺の気のせいだろうか?
声をかけるか否か、その判断に俺は戸惑った。花の香りを纏ったその女性が発した言葉である事に間違いは無いのだが、それは俺に対して言った言葉なのかどうなのか。電話で話している様子は無かったし、近くに誰か話していた人がいた訳でもない。ただ、彼女は文字通り呟いただけだ。
だから俺に話し掛けた訳じゃ無い。そうわかっているのに、何故か俺はその言葉が俺に対して言われた言葉のような気がしてならなかったのだ。
疑問、そして躊躇い。そんなのがごちゃ混ぜになっている俺を無視してドアが閉まる。人ごみへと彼女が消えていく。俺はそれを半ば呆然としながら見送った。
小さな駅だったせいだろう、降りる人が少ないのと同じで乗ってくる人も少なかった。俺の隣、彼女のいた空間は誰も座る事無く、ただ、その香りだけが残っている。
果たしてこんなにも花の匂いというものは強かっただろうか。
瑞々しいその花の匂いは、その日から事ある毎に俺の鼻腔をくすぐった。花も無い場所で、その香りだけがある。俺は気付くのに、他の人は誰も気付かない。ただ、その匂いを感じる度に俺は見ず知らずのあの女性の事を思い出すのだ。
あの、口元の笑みと、あの言葉。
俺にはわからない。彼女が、何を言いたかったのか…
そんな不思議な出来事があってから随分と日が経った。あの花の匂いが纏わりついたのはあれから一週間くらいで、あれはただ単に俺の気のせいだったのかもしれないと思えば容易くそうだと断定できる、そんな些細な出来事へと変化していた。
そんなある日、実家の母から電話があった。家をバリアフリーにリフォームするから俺の部屋にあるガラクタをどうにかしろという物だった。なるほど、二人ともその様な年になってしまった。それなのに俺ときたら職と十分な収入はあるものの付き合っている人もおらず、父と母に孫の顔を見せる事も当分出来そうにない。
身を固めなきゃいけないと考えるような年になったのかと、内心溜息をつきながら俺は一路実家へとむかった。
そして今、俺は自分の部屋だったガラクタ部屋の掃除をしている。地主だった曽祖父のお陰で俺のガラクタ部屋と名づけられた小さなプレハブをもらっていた。そこは適度な庭もあるし、家から離れているから若い頃は良くここに閉じこもってアンプなどをいじっていたのを思い出す。
よくわからないものが散乱する部屋の中を歩き回ってゴミ袋へといらないものをぶち込んでいく。とはいっても部屋にあるその殆どが今となってはいらないものの集まりで、いっそこのプレハブごと捨ててしまえと思ってしまう。
そんな部屋の中、機械系が好きだったはずの俺にしては珍しいものを見つけた。
「ライラック…?」
部屋の隅で本や訳のわからない布などの下敷きになっていたそれはライラックの絵が印刷された紙だった。色褪せた文字を読んでいくと、どうやらライラックの苗木の説明書らしい事がわかった。さて、こんなもの何時買ったんだろうかと思いをめぐらせるが、このプレハブを使っていたのは俺がまだまだ若かった時の事で、そんな紙切れ一枚の事なんて記憶にも何にもありはしない。
誰かに押し付けられたか、荷物に紛れ込んだのか…どちらにしろ、自分で買ったものじゃ無いだろう。それをゴミ袋に突っ込むと俺は片づけを再開した。
時計の針が零時を指す頃、漸く片付けは終了した。山のように積まれたゴミ袋を見てやはりプレハブごと捨ててしまった方が良かったんじゃないかと溜息をつく。
腹が減ったが生憎このプレハブにはガスも水道も無い。あるのは電気のみだ。食料も水も無いので母屋へ行って何かを貰おうかと思ったが、父も母ももう眠りについているかもしれない。それを起こすのは気が引けた。
近くのコンビにまで車で確か二十五分くらいだっただろうから、そこで何かを買おう。そう考えてプレハブを出た。
都会とは全く違った空の色。沢山の星を押しのけるように自らを主張する満月の光で俺の足元に陰が出来る。その影の先、月明かりに照らされて何かが見えた。
乱雑で手入れも施されていない庭には雑草が我が物顔ではびこっている。そんな中でひっそりとそれは咲いていた。
それがライラックだと気付いたのは先程の紙を見たからで、それが無かったらきっと名前もわからなかっただろう。
清楚なイメージを持っていたのだが、随分と華やかに強く咲くものだと感心しながらそこへと近付いていった。
ふわり、と。
その匂いに俺は足を止めた。その香りはまさに、あの時の女性の匂いだったのだ。そうだと理解した途端に花の香りが強くなる。
一度会っただけの、ましてまともに顔も見た事の無いその女性の姿が目に浮かぶ。まるでパブロフの犬だ。あの人を見たのは随分と前の事だ。数ヶ月か、半年か…それだってもうあやふやで本当かどうかわからない。それ位前の事だというのに…。なのに、どうしてこんなにも俺はこの匂いに捕らわれているんだ?
体が動かないのが一体どうしてなのか俺は頭の片隅で理解していた。これは、恐怖という物だ。
「どうして…」
足は自然にライラックの元へと向かう。よくよく見ると、ライラックの咲いている所だけ微妙に地面が盛り上がっていた。それは余りにもわかり辛い変化であったが俺の目はそれをハッキリと確認した。それによる恐怖が俺の体の中を廻って背筋を伝って脳へと伝わっていく。
それは鈍い痛みに似ていた。
「どうして…」
若い頃の記憶なんて、忙しい毎日の向こう側へと捨ててしまった。だから覚えていないのか、それともただ単に思い出したくないだけなのか。
直感だけが俺にこの場所は危険だと伝えている。この花から逃げなければいけないと言っている。あの女性の匂いが、この花からあふれ出ている。
わかりませんか?
果たしてそれは声だったのだろうか?しかし俺には声に聞こえた。その花が話しているのかとすら思うが、そうではない。その声は俺の中から聞こえている。俺の中、俺の奥底、俺の記憶の奥底に眠っている、『誰か』の声。
その声が、呟く。
俺に話しかけるのではなく、ただ、わからないのかとそう言葉を紡ぐ。責めるでもなく、問うでもなく、ただその言葉を口から紡いでいく。
あの時のように、俺の近くで。
私が、わかりませんか?
わからない。わかりたくない。わかってしまったら俺は変わってしまう。そう思う時点で俺は何となく理解しているのだ。どうして一度見ただけの女性の姿を俺が覚えているのか。どうして彼女の匂いがこの花の匂いなのか。
あの日見た女性の姿は幻で、すべてはこの日の為の伏線に過ぎなかったのかもしれない。すべてはただこの日の為に。俺の過去、遠い記憶の果てに埋められたあの女性の記憶を呼び覚ます為だけに。
わかりませんか、と彼女が問いかける。
わからない。わかりたくないと俺が答える。
彼女が、笑う。
彼女を覆う土を払いのける勇気は、俺には無かった。
ライラック
花言葉 思い出、弱さ

(c)Kyouzaki