Shadow

 触れれば割れてしまいそうな程細い三日月が、街を照らす。地上に近くなればなるほど月独特の青白い光がネオンやライトに照らされて闇が薄れる。
「ふーっ…ふーっ…」
 指先が真っ白になるほど自分の体をかき抱き、覚束ない足取りで男が歩く。その目は虚ろで、興奮した犬のように呼吸音が激しい。
 この街は消費されるだけの街。沢山の娯楽と快楽と不幸と絶望が入り乱れるこの街では、彼の異常さはたいしたものではない。通りすがりの人が眉をひそめて彼を横目で見つめるだけで、それ以降はもう見向きもせずに他の娯楽へ目を向ける。
 彼は最早この街の消費されるものにすぎなくなってしまっていた。
「…んで……お前は…」
 口の中で呟くその声は地を這うように低く、その言葉を確実に聞き取れた人はいない。例え彼がはっきりとその言葉を口にしたとしても、無意味に流れていく流行の曲が彼の言葉をかき消してしまうだろう。
「くるな…」
 虚ろだった彼の目が、自分の足元をぼんやりと見つめる。ライトに、ネオンに、月光に照らされて、彼の足元には何重にもなった影がびっしりとしがみついていた。
 彼の目が一気に見開かれる。目が飛び出てしまうのではないかと思ってしまう程に瞼を開いて、自分の足を見つめた。そのうちその目に一種の感情が映り込む。それは怯えと恐怖と、そして少量の怒りと憎悪の色を持ちあわせたなんとも言えない色をしていた。
「くるんじゃない。」
 何かに追われるかのように彼の歩調が速くなる。しかしそんな彼を嘲笑うかのように彼の足元を影が掬う。看板のライトが彼を照らすと、影が一際濃くなった。
「ひっ…!」
 呼吸が止まってしまったのではないかと疑ってしまう程に息をつめて、彼が悲鳴を押し殺す。看板がひきつけを起こしたように点滅を繰り返すと、影も同じように姿を変える。
 道化のように形を変える影に彼は再び逃げ出す。途中で人にぶつかるが知った事ではない。そのうちに歩調が徐々に速くなっていき、最終的には走り出していた。
「嫌だ…止めろ、来るな!」
 360度から彼を照らす光は、360度から彼を縛る影を作り出す。逃げても逃げてもその影は彼を追っていく。
 息が上がる、喉が痛くなる。わき腹が軋み、足がガクガクと意思に反して痙攣を始めた。限界は当に過ぎていたが、それでも彼は走りを止めない。
「嫌だ、嫌だ!!」
 最早彼の声は声ではなく、ヒューヒューと喉がなった程度のものになってしまっていた。しかし彼は叫びながら逃げ続けた。それ以外できなかった。  ネオンの街を抜け、街頭から逃げる。光から逃げれば逃げるほど、影が消えていくのがわかった。
「……ふーっ…ふーっ…」
 彼の呼吸が徐々に落ち着いていく。狂気染みた目は力を失っていき、足元も覚束なくなっていったが、彼は漸く得た安堵に座り込んだ。
 空を見上げると、細い三日月が彼を見下している。
「まだ、いたのか…」
 もう彼の体には逃げるほどの力は残っていない。地面を見つめると、座り込んだ自分の体を蝕むように影が支配し始める。
 体を蝕まれ、彼は逃げる事ができなくなる。影に毒された足はもう動かない。
 これで終わりだと、覚悟して彼は目を閉じた。
「………はは…っ」
 月を見上げたまま目を閉じた彼は、乾いた笑いを漏らした。
「そうか…そうだったのか…」
 ついに逃げ切ったのだと、そう理解すると彼は自然に笑い始めていた。堪えようもない笑いが彼を襲う。自分は勝ったのだ。奴に勝ったのだ。
 ここがどこなのかすら彼は理解していない。わかる事は、ここは月明かりすら届かない真の漆黒が支配する場所だという事だけ。
 瞼で閉ざされたこの場所は、一切光の届く事のない安らぎの場所。
「ここが、俺の…」
 安息の地なのだと呟く彼に、月が嗤う。
 影に怯えた彼にとって、真の闇こそが本当の敵であるのだという事をまだ彼は理解していない。
「……ふーっ…ふー…」
 彼は自ら闇へ、影の塊へと身を投じたのだ。
 徐々に彼の体を闇が侵食する。足が動かなくなり、下半身が麻痺し、指先が痺れ、呼吸が浅くなる。ぼんやりとする頭で何故体が動かなくなってしまったのだろうかと彼は考えたが、もう思考回路すら闇に阻まれる。
 ただそこにあるのは、彼が恐れていた影の与える真の安らぎ。闇の生み出す死という名の安らぎが柔らかな真綿のように彼を包んで、窒息させていく。
 もう、逃げる事など不可能なのだと、ぼんやりとした中で理性が告げる。


 僅かな三日月が闇に飲み込まれ、消えた。







(c)Kyouzaki