アンティーク

 夜、仕事帰り。霧の街は相も変わらず白く煙っている。
 そんなある日、ふと、いつもと違う道を通りたくなった。

 いつも右へ曲がるこの道を、細い左の路地へと入っていく。石畳で装飾された風情ある路地裏に何故か私は懐かしい気分に捕らわれた。
 しかしそれもすぐにかき消される。
 路地裏には家庭の裏口があるばかりで無愛想に感じられたからだ。更に今の時間帯ではカーテンが閉まっているから拒絶されているような気分にすらなる。
「…?」
 そんな中で唯一つ、ひっそりと何かの店の看板が出ている。その窓からは明かりがもれており、暗い道をそこだけ明るく照らしていた。
 気の向くまま、その店の前で立ち止まる。ブロンズでできた看板には骨董屋の文字が書かれていた。こんな所にどうして?興味をそそられて私はその中へと足を踏み入れた。
 カラン、と言う軽いドアベルの音が鳴る。
 私は店内に目を向けて感嘆の息をついた。雑然と並べられた柱時計、棚を埋め尽くすティーカップ、オリエンタルな柄のタペストリー。詳しくは良くわからないが、いい品物であるのは間違いなさそうだ。
「いらっしゃいませ。」
 独特の発音に振り返ると、そこにはアジア系の男性が居た。どうやら彼は店員もしくは店長らしく、店の奥にある椅子に座ってこちらを見ている。
「お気に召した物はありましたか?」
 にこりと笑みを浮かべて彼が問いかけてくる。別に私は何かを買う為に入った訳では無いので言葉を濁した。
「では、買取でしょうか?」
「いえ…」
 なおも言葉を重ねられて私は首を横に振った。
 そんな私を見て彼は席を立ち、私のすぐ前まで来た。冷やかしは帰れとでも言うつもりだろうか?思わず身構える。
「これを売ってくださるのでは?」
 青年が私の胸を指差す。そこには空色をしたブローチがあった。
「これは…」
 いつの間にこんなものをつけていたんだろうか?記憶も無ければ見覚えも無い。狼狽する私を他所に、彼はブローチを見つめていた。私も彼と同じようにブローチを見やる。
「曇りの無い空の様ですね。」
「これは…」
 私のものであるかどうかもわからないのに、それを見つめれば見つめるほどに懐かしいような感情が溢れてくる。
「余程大切にしていたのですね。」
 私が、大切に…?一体これは何なんだ?
「是非ともこれをお譲りいただけませんか?」
 青年の言葉に首を横に振る。私のものかすらわからないものを売り払う訳には行かない。しかし青年は私の心の中を知っているかのように口を開く。
「これは貴方のものです。そうでなければ貴方の胸についている訳がありません。」
「これは私のものではありません。」
 そう口に下途端、空色が一瞬だけ曇りを帯びた。それを見て青年が私を見据える。
「これは貴方のものですよ。だからこうして貴方の言葉に反応するんです。」
 確信に満ちた言葉。彼がこれが何か知っているのだろうか。どうして私の胸についていたのか、いつ私のものになったのか、そもそもこのブローチは一体何なのか。
 …知って、いるのだろうか。好奇心と探究心が先走って私を動かす。
「これは一体何なんですか?唯のブローチでは無いんでしょう?」
 私の問い掛けに青年はしっかりと頷く。
「ただの宝石ならあんなふうに色が変わる訳が無い。…これは一体何なんですか?」
 青年は手を伸ばして私の胸にあるブローチを外した。
「貴方がこれが何かを理解できないのは、貴方がこれを胸の奥にしまい込んでいたからですよ。捨てられなかったからずっとしまっておいたんでしょう?」
 ずっとしまっていたから忘れたのか?だとしたら何故しまっていたものが、今ここにあるんだ?疑問符は尽きる事は無い。しかし頭の片隅では青年の言葉をすんなりと受け入れている自分が居た。
「お売りくださいますか?」
 何度目かの問いに私は頷いた。頷く訳も、果たしてそれが本当に正しい判断なのかすらも、何一つわからない。 私が忘れていた事、私がしまっていたもの、そして私が今手放そうとしているソレ。
 …頭が混乱する。
「大人になっても尚、これだけの光に満ちた夢をお持ちだったのですね。」
 青年がブローチを恭しく手の中に納めながらそう呟く。
 彼は今、何と言ったか?…夢…と聞こえたのは気のせいか?
「えぇ、これは貴方の夢。幼い頃に抱いていた希望が形となって現れたものです。」
 私に夢などあったろうか?幼い頃から親の言いなりになって育ってきた私に、夢なんてものは何処にも存在しないのに。夢は口に出す前に摘み取られ、家を継ぐ事だと刷り込まれていった。
 このブローチが私の夢だと言うのなら、こんなに綺麗な色をする訳が無い。
「来週、空いていますか?」
 考えを遮るように青年が声をかける。ショーケースに置かれたブローチは光を放っているように見えた。
「えぇ、多分。」
「それでしたら来週またお越し下さい。その時には売れていますでしょうから。」
 はいと小さく返事をして私は店を出た。
 夜に煙る町を歩きながら改めて冷静になれば、夢が形を持つわけが無い。あの青年にいっぱい食わされたのだと考える。
 しかし、どうしてか私の頭からあの空色が離れる事は無かった。

 気が付けば私はまたあの店に足を運んでいた。この一週間、私は色々と考えていた。あのブローチ…夢が果たして私にあったか否かをだ。
 …しかし答えはでなかった。だから今日は答えを探しに行くのだ。私の夢と称されたあのブローチが、一体なんであるか。それだけを聞く為に。
 あの日と同じように私はあの店のドアを開ける。カランとドアベルが鳴り、店に入るとすぐに奥にある椅子に座っている店主と目があった。
「こんばんは。来て頂けて幸いです。」
 柔和に頬を緩めて浮かべるその笑みが、次の瞬間に陰りを帯びた。
「申し訳ございませんが、あの商品はまだ売れていないのです。」
 店主の視線の先を辿るとそこにはショーウィンドウに飾れたブローチがあった。そのブローチは心なしか先週に比べて光を帯びているように見えた。
「私が商品の売れる時を間違えてしまうとは…とんだ失態です。」
 店主が悔しそうに唇を噛み締めるのを見て私は慌てて声を上げた。
「間違いなら誰しもありますよ。それに商品が売れるか否かは買い求める客にしかわかりませんし。」
 どうしてこれまで執着するのか私にはわかりかねた。多分、私にはわからない商売人としてのプライドがあるんだろう。
「しかし、お客様のお時間を無駄にしてしまいました。折角お越しくださったのに…」
 どうやら彼は完璧では無いと気がすまないらしい。私は青年の言葉に首を横に振った。
「では、何か商品を見させてもらいます。それならここにきた事も無駄では無いでしょう?」
 そう言いながらショーウィンドウに目を滑らせる。すると、前回来た時には無かったペアのティーカップが私の目に飛び込んできた。きっと有名なメーカーの物なのだろう。染付けは美しく繊細で、陶磁は驚く程白く滑らかだった。
「それが、お気に召しましたか?」
 店主はいつの間にか私の右斜め後ろに立っていた。彼にそう言われるとは…さぞ物欲しそうに見ていたのだろう。私は恥ずかしくなり僅かに顔を赤く染めながら俯いた。
「これはデザインから焼付けまで、一貫して一人の英国の職人が作った物なのです。美しいでしょう?」
 なるほど、溢れ出る気品は職人の国柄が色濃く出たからだろう。この、霧の街ロンドンを首都に持つ英国は、格式高く、気品に満ちている国なのだから。
「美しいが故に、触れる事に戸惑いますけどね。」  触れる事に戸惑うのは、その職人の国柄…英国が格式に固執するせいだろう。私のような余所者はいつだって爪弾きだ。
 …私の脳裏に、名ばかりの婚約者の顔が浮かんだ。
「美しいですね。」
 店主がティーカップを賛美する声が遥か遠い。
 祖父母の代から始まった工場を守る為に、表面上の結婚を余儀なくされたのは3ヶ月前。相手は貴族の血筋を受け継ぎ、余所者で英国式の立ち居振る舞いができない私を嘲笑う。
 好きでは無い者との結婚、押し付けられた家業。そんな私に、夢を見る機会などあったろうか?…答えはたやすい。
 否、だ。
 あのブローチは私の夢などでは無い。その結論に行き着いた時だった。
 カラン…とドアベルの音が店内に響き渡る。反射的にそちらを見ると、10歳前後の少年が物珍しそうに店内へと入ってきた。彼はまるで宝石箱を覗くような、輝く目でショーウィンドウを見つめる。その視線が、ピタリと一点で止まった。
 店主はそれを見て満足そうに微笑むと少年の隣に立った。
「それがお気に召しましたか?」
 まるで最初から決められたセリフの様に店主が問いかける。問い掛けの答えはその品を見る少年の熱い視線だったが、少年は狼狽して俯くだけだ。この様な店にある品が彼に買える訳が無い。彼自身、それをわかっているのだろう。
 唇を噛み締めると彼はその場を去ろうとした。
「お待ち下さい。」
 それを遮ったのは凛とした店主の声だった。
 店主が何故少年を呼び止めたのか私にはわからない。これ以上彼に惨めな思いをさせる必要なんて無い筈だ。…手に入れられないものを、いつまでも追いかける辛さは私も知っている。痛いほどに…  そう思って、ふと考える。
 私は、何を求めていたんだ?
「お金…ないんです。」
 私の考えは微かな声に遮られた。だから買えないんです、と付け加えるその姿が痛々しい。
「お金は関係ありません。この品に見合うものがあれば、交換いたしますよ。」
 この品。そう言って示したのは例のブローチだった。
「見合うもの…」
 少年は必死にポケットを探る。出てくるのは2枚の小銭と飴玉と瓶の王冠だった。…それは全くと言っていい程価値の無いものばかりだが、少年にとっては大切なものなのだろう。それらをポケットから出す時の名残惜しそうな姿を見れば誰だってわかる事だ。
「お客様。この中に、ブローチと見合う価値のあるものはありますか?」
 少年と店主のやりとりを見ていた私は突然に声をかけられて驚いた。
「何で私に聞くんですか?」
「これが貴方のものだからですよ。このブローチの価値を決める権利は貴方にあります。」
 選択権は私にある。会話から外れていた少年もそれを理解したらしく、私の様子を窺っていた。
「これの価値…」
 …このブローチに、価値などありはしない。むしろ、少年の大事そうに持っていた王冠や飴玉の方がよっぽど価値のあるように見える。
「君が決めていいよ。」
 私なんかが決められるものじゃ無い。このブローチの価値を決めるのは、それを手にしようとする少年だ。
 己の大事なものを引き換えにしてもそれを選び取ろうとするのなら私はそれを止めない。勿論、この取引を無しにしても構いはしない。
 すべて、決めるのは彼なのだから。
 私の言葉に少年は暫く悩んでいたが、ついに決意して先程の瓶の王冠を店主に差し出した。
「本当によろしいのですか?」
 念を押す店主に少年は頷いた。その目には一寸の迷いも見当たらない。
「では…」
 店主は王冠を受け取り、ショーウィンドウの中にあったブローチを取り出す。
 それを差し出されると、少年は希望に満ちた目でそれを受け取り、帽子につけた。その瞬間にブローチの空色の石が輝きを増したかのように見えたのは、私の気のせいでは無いだろう。
「ありがとうございます。大切にします。」
「それは良かった。」
 きっとこのブローチも、新しい持ち主を歓迎しているに違いない。このブローチは、私のような臆病者には美しすぎる輝きでしかなかったのだから。
「君、」
 店を去ろうとした少年に何故か思わず声をかける。
「君の夢は何なんだい?」
 私に声をかけられた少年は振り返って満面の笑みを浮かべた。
「僕の夢はパイロットになる事です。」
 パチンとまるでシャボン玉の割れるような音と共に、私はブローチを…否、私の夢を思い出していた。幼い頃、学校で提出する作文の題が将来の夢だった。
 その原稿用紙に綴った言葉が、少年の言葉と重なる。

「僕の…夢は…」

 パイロットになる事です。
 汚い文字ながらも一生懸命に書いた文章。いかに空が好きかで埋め尽くされたその作文を、私は自信満々に両親に見せた。…褒めてもらえると、認めてもらえると思っていた。
 許されなかった夢。届かなかった願い。叶わない願いを胸の奥にしまいこみ、私は私を演じ続けた。家を捨てれば、地位も家督もすべて捨てれば、手に入ったかもしれないのに。
 夢が無かった訳じゃ無い。
 臆病な私が、夢を追うことを諦めた。ただ、それだけなのだ。

 店の外、夜の闇に少年が消えていくのを視点の定まらない目で見つめていた。
「ここは…一体何なんですか?」
 私の問いに店主はきょとんとしていたが、口の端を持ち上げて笑う。
「古道具屋ですよ。そして、人の願いと過去が交錯する場所でもあります。」
 意味ありげな笑いを浮かべたまま、店主は先程少年から受け取った瓶の王冠を私に見せた。
「これは彼の一番の宝物でした。昔の父がくれたものです。」
 まるでそのことを知っているかのような口ぶりで店主が言葉を続ける。
「母親の再婚でできた新しい父を、本当の父と認識したくなかったのでしょう。だからこそ、この王冠が彼にとっての最高の宝だったのです。」
 うっとりと瓶の王冠に視線を滑らせると店主はそれを大事そうにショーウィンドウにしまいこんだ。
「彼は過去を捨てる代わりに未来を掴んだのですよ。」
 たやすく信じるなんてと思う反面、あぁそうだったのかと素直に納得する自分が居た。
「次は貴方の番ですよ。貴方は夢を捨てた代価で新しいものを手に入れられます。」
 どうぞお選びくださいと、そう誘導する言葉。…迷いは無かった。
「その、ティーカップを。」
 英国の気品を頂いて、婚約者に嘲笑われる事なく、この国に溶け込んでいこう。そして…私が代価として売った夢に負けないような未来を掴もう。
「ありがとうございます。大切になさってくださいね。」
 ショーケースから取り出されたティーカップを受け取ると、まるで砂塵のように消えていった。しかしそれは消えたのではなく、私の一部に変わっただけの事。
「またご用がありましたらお立ち寄り下さい。」
 微笑む店主が私にそう言ってハンカチを差し出した。…何故、ハンカチを?
 問う前に私の頬を涙が滑り落ちて行った。
「ありがとうございます。」
 例え代価を手に入れても、失った空白は埋められない。それは余りにも自然に、そして鮮やかに私の中に在り続けるだろう。
 幼い頃の希望、願い、青い空…輝かしいあのブローチを、あの空色を、私はきっと忘れる事などできはしないから。
「では…」
 ハンカチで顔を隠して店を出る。涙が収まる頃には、路地裏も終わりになっていた。
 ふと夜霧に包まれてソラを見上げると
  路地に囲まれた小さな空が
  黒く黒く…
  だが、

  確かに存在していた。







(c)Kyouzaki