2. 稔彦 SIDE

 今日は土曜日。高校生の俺は休みの日だが、輝にとっては学校に行く日でもある。
「輝、気をつけてな?」
 輝は嬉しそうに大きく頷くと浮かれた足取りで家を出て行った。それを見送って俺は居間に戻る。居間には湯気を立てるコーヒー片手に何語か良くわからない新聞を読んでいる奨の姿があった。
「輝はもう行ったのかな?」
「あぁ。凄い嬉しそうに出て行ったよ。何もされないのは嬉しいんだけど、日頃ない事だから妙に怖くて…。」
「バイトが決まったらしいよ。若菜駅付近のバーだって言ってたかな。」  何でそれで機嫌がいいんだろう?給料がいいんだろうか?…ま、俺としてはべたべたされなくて楽になった部分が多いから助かるんだけど。
「それより、今日はらしくない人が居るんだけれど、どうしたんだろうね?」
「弘樹か?」
 今日、弘樹が一回も俺達の前に顔を出さない。いつもだったら一番に起きて俺に飯…いや、餌をねだりに来るのに。
「病気じゃないといいんだけどな。」
 もう冷えてしまった弘樹用の飯を見ながら、小さく溜息交じりに呟く。
「それじゃあ引っ張り出してみようか。本当に病気だったら病院へ連れて行かないといけないしね。」
「動物病院になるのか?保険きくかな?」  俺の言葉に、奨は一瞬呆気に取られた顔をしてその後楽しそうに声を上げて笑い始めた。しかも苦しそうに腹を抱えて。
「な、何そんな笑ってんだよ!!」
「いや、稔彦は思った以上に天然なんだなと思ってね。」
 俺だって人間の病院行かなくて良いのかなとか考えたぞ!でも弘樹が行かないって駄々を捏ねると思ってそう言っただけであって、人間を動物病院に連れて行こうとする程俺は馬鹿じゃない。第一、診察券にはなんて書くんだ?犬か?人か?そんなん書いたら絶対不審者だって!
 笑い続ける奨に俺は不機嫌になってそっぽを向いた。奨なんか笑いすぎて呼吸困難になれば良いんだ!…と心の中で叫んでいると、階段の方から人の下りる音がする。どうやら弘樹らしい。
「弘樹、降りてきたみたいだぞ。」
 ぶっきらぼうにそう言うと、奨は笑うのをやめて足音を聞く為か耳を済ませた。
「…本当に弘樹かい?この足音は二本足だろう。」
「え?」
 言われてみれば足音は四本足の降り方ではない。って事は、一体誰が降りているんだ?俺は椅子から立ち上がると身構えた。奨も同様に身構える。  足音はゆっくりと近づいて、居間に入ってきた。
「「弘樹!?」」
 俺と奨の声が被るが、とりあえず今はそんな事どうでもいい。
「奨、稔彦、おはよう。遅く起きてしまってすまなかった。」
 弘樹が二本足で歩いているのだ。しかも言葉まで喋ってる。……悪い夢か何かか?俺は何度か自分の目を擦った。
「弘樹、何が起きたんだ…?」
「すまないが説明は後だ。私は風呂に入ってくる。」
「あ、あぁ……」
 弘樹が風呂場に向かう。弘樹が、あの風呂嫌いの弘樹が自ら風呂に!?俺は弘樹を唖然として見送った。
「奨…明日は爆弾が降るかもな。」
「それは否定しないよ。」
 最近大量に需要があったからね。と笑いながら和やかに言う奨が何となく怖くなった。最近は爆弾の需要が高いけど、個人用の銃がやっぱり売れ筋だね。なんてにこやかに笑いながら怖い話を続ける奨を止めるべく、俺は無理矢理話しを変える。
「そ、それにしても、一体何があったんだ?」
 話をさえぎられて奨は少し不機嫌そうに眉をしかめたが、すぐにいつも通りの笑みを浮かべた。
「予想はついているよ。稔彦が来る前にも一回こんな事があったしね。」
 奨の言葉の中に悲しそうな雰囲気が混じっているのに気付いて目で問うと、奨は小さく首を横に振った。
「私の一存では言えないよ。弘樹自身の問題だからね。悪いけど、弘樹から直接聞いてくれるかな?」
 困ったような奨の声に俺は頷くしかなく、弘樹が風呂から上がるのを待った。
 それから1時間後、風呂から上がった弘樹はスラックスにワイシャツの服装で居間にやってきた。勿論、いつもの弘樹と違って人間のように振舞って。
「えっと、弘樹?」
「何か用か?」
 タオルを首にかけてごしごしと頭を拭きながら弘樹が不思議そうに問いかけてくる。ってか弘樹が人間みたいに振舞ってるのがすげぇ不自然なんだけど……。人間なのに。
「どうして今日は人間なんだ?」
 俺の問いに一瞬辛そうに顔を歪ませると、弘樹はいつも座らないはずの椅子に腰掛けて俺と奨に理由を話し始めた。
「すまないが、今日、私の父親がこの家に来る事になった。犬のままでは話せないから、仕方なく人間を演じているが、そう問われるという事は私の演技も中々という訳だな。」
 人間を演じているって凄い表現だけど、弘樹にとってはそれが当たり前なんだろう。弘樹は犬なんだから。
「でも父親って事は霧崎グループの社長だろ?ここに来る時間なんてあるのか?」
 そう、弘樹の父親が経営しているのは自動車メーカーを主体とした霧崎グループなのだ。自動車のシェアは世界の三分の一を占め、今では色々な事業に手を伸ばし、ファーストフード、更にはオリジナルブランドの衣服・日用品・雑貨なども出している超が付く程一流の会社の御曹司が目の前に居るなんて、世界って本当に狭い。
「去年も確かこの日に来ていた。時間を作るのは容易い事ではないだろうが、あの人は必死だからな。」
 忌々しそうに呟く弘樹。俺の中の弘樹は犬だけどその分いつも皆の事を見守ってて、気を使ってくれてる優しいイメージしかなかったから、その表情に一瞬気圧された。
 そんな俺を見て弘樹が苦笑する。俺は表情を変えたつもりは無かったんだけど、きっと弘樹は気付いてしまったんだろう。犬は人の目を見るだけで感情を知る事ができるとTVでやっていた。
「すまない。嫌な気分にさせたみたいだな。」
「そんなんじゃないって…」
 ただ、今まで弘樹がそんな顔をするのを見た事が無かったから驚いてしまっただけだ。
「できれば…私と父が話している間は二階にいてくれないか?今と同じような事が何回もあるだろうからな。」
「俺も一緒に居るよ。」
 好奇心が無いと言ったら嘘になるだろう。しかし心配の方が確実に好奇心の率を上回っている。
 温厚な弘樹がここまで嫌だと言う感情をあらわにする様な人と一緒にいさせて大丈夫なのだろうか?しかも弘樹の顔に映っているのはただの嫌悪じゃなく、恐怖も含まれていた。
 父親と何があったかは知らないけれど、こんな弘樹を一人にするのは気が退けた。
「稔彦。」
 俺をたしなめる様に声をかけたのは奨だった。俺は少し躊躇してから頷いた。
「…わかった。上に行ってるから、終わったら言ってくれよ?」
 そう言って居間を出ようとすると、突然携帯が鳴った。しかも一番最初に入っている電子的な一定の音。俺の携帯じゃないって言うのはすぐにわかったけど、一体誰のだ?奨のはアヴェ・マリアだったし…。
 考え込んでいる俺を他所に、弘樹が服のポケットから携帯を取り出した。…携帯持ってたのか…と妙に感心していると、弘樹が一瞬驚きに目を丸くして視線を床に落して溜息をつく。明らかに何かがあったのが見て取れた。
「どうかしたのか?」
 俺の問いかけに弘樹は再び溜息をついて俺と奨を見つめた。
「父が二人に会いたいと言っている。すまないが、一緒に話してくれないか?」
「へ?」
 何で弘樹の父親が俺達に?俺がそう考えていると奨が眉間にしわを寄せながら弘樹を見つめた。
「他の人を巻き込む事で、君の決心が揺らぐ…と思ってるんだろうね。弘樹は良いのかい?」
「私に拒否権は無い。」
 はっきりと言い放ち、携帯を閉じる。と、外から車のエンジンの音がした。暫くするとエンジン音が消えてドアの開く音と人の話し声が聞こえてきた。
「父だな。」
 淡々とした声でそう言うと弘樹は何回目かの溜息をついた。それをかき消すかのようにチャイムが鳴り、来客を訴えた。チャイムの音に弘樹はピクリと体を動かしたけれど、その後は全く動く様子を見せなかった。
 そんな弘樹を心配そうに見つめた後、奨が玄関に向かう。
「今出ます。」
 足音と共に遠のく奨の声。俺も一応来客だし行くべきだろうかと考えて玄関に行こうとして足を踏み出したけれど、服の裾を掴まれて足を止めた。
「弘樹?どうし…」
 言葉は最後まで出なかった。俺の服を掴む弘樹の手は細かく震え、血が通えないんじゃないかと思うくらいに指が白くなるまで力を入れていた。その時の弘樹の気持ちや感情は俺にはわからなかったけれど、必死に俺の服を掴む手がとても痛々しくて、支えてやらなきゃと思った。
 俯いて何かを堪えている様子の弘樹の頭にそっと触れる。弘樹はビクリと体を強張らせたが、頭を撫ぜてやると体の力を抜いてそっと俺に擦り寄ってきた。きちんと立つと俺よりも高い背だというのに、その姿は凄く小さく見える。
「大丈夫だよ。俺達がいるだろ?」
 何の根拠も無い良くありそうな台詞。何もわかってない俺の言葉は無遠慮だったかもしれない。でも弘樹は俺の言葉に何度も頷いていた。
「弘樹、一也さんが来たよ。」
 柔らかな奨の声に弘樹はスッと顔を上げた。その顔からは恐怖も動揺も何一つ感じ取る事が出来ない。感情すべてを消し去ったかのような弘樹の顔が、痛ましく見えた。
 弘樹が玄関に向かう。俺もその後を追うと、玄関には奨と高級そうなスーツを着こなした男の人が立っていた。霧崎グループ社長、霧崎一也…。顔がきつい訳でもないのに一見しただけで切れ者だと思った。奨とは違うけれど上に立つ人のオーラみたいな、そんなものを感じる。
「初めまして。息子がお世話になっています。」
 凛とした声に、きっちりとした身のこなし。社長という名前だけの人じゃないというのは一目でわかった。
「まぁ、玄関で話すのもなんですから居間へどうぞ。」
 奨が優しい声で促すと、一也さんは小さく頭を下げてから靴を脱いで家に上がった。
「居間はこちらです。」
 ……あ、何で奨がいつに無く柔らかい声を出してるか漸くわかった気がする。きっとこの空気を和ませる為だ。何て言うか一触即発って感じがするこの空気を変えようとしてる。
 俺は一也さんと弘樹、奨が席につくのを確認して椅子に腰を下ろした。









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