弘樹SIDE

 小さい頃から自分は将来会社を継ぐ物として育てられていた。そう、物として。
 自由なんて一つもなかったし、自分の行なった事はボディガードの人間からすべて両親に報告されていて、いつもあるのは分刻みのスケジュールと限られた人間との交流。物心付いた時にはもう、抜け出す事はとうに諦めていた。
 私がまだ小学校に上がる前に身代金目的で誘拐された事がある。私は必死に父に助けを求めたが、父は頑として犯人の要求を受け入れなかった。それどころか電話越しに助けを求めていた私に『自分には子供はいない』と言い、一方的に電話を切った。それでも必死に自力で逃げ出した私に待っていたのは父親の蔑んだような目と、罵声だった。誘拐犯に捕まった事、すぐに逃げ出さなかった事、救いを求めた事、すべてが父の怒りの対象だ。父は私が嫌いなのだ。劣悪な私が。
 だから私は父の望むような人間となるように日々を過ごし、明日にも会社を継ぐという一歩前で家を出て父の期待をすべて裏切った。その時の私は人として生きており、犬として生きようなどとは考えもしなかった。
「随分と久しぶりだな。」
 一年ぶりにあった父親は昔と変わらない笑っているようで笑っていない微妙な笑みを貼り付けたまま私にそう言って来た。
「一年ぶりだ。そう長くも無い。」
 私が事も無げにそう言うと父はそうだな。と、いとも簡単に言ってのける。なら最初から言わなくても良いだろう。父は肩をすくめてやれやれと小さく呟いたが、それが小さなパフォーマンスである事を知っている自分にとって見ればなんて事はない動作に過ぎない。
「皆さんには弘樹がお世話になっております。」
「いえ、とんでもない。」
 父の言葉に奨が満面の笑みで答える。長である者同士の騙し合いに少々気をとられそうになるが、今回は高見の見物を決め込む事が出来ない。何せ、私の事なんだから。
「皆さんの事は弘樹から聞いております。」
 私からではなく、探偵からだろう?私が彼に皆の事を話す訳がない。皆は私にとって初めての安らげる場所なのだ。こんな奴に話す筈が無い。
「なぁ弘樹。いつになったら帰ってくるんだ?」
 早速本題に乗ってくる。すぐに本題に入る時は大体二つのパターンが考えられる。一つは余裕が無い時、もう一つは勝機が見えている時。父の場合は後者以外有り得ないだろう。
「帰らないといったはずだ。言語理解能力が衰えたのか?」
 柔らかい物腰の父に、口調の悪い息子…何も知らない人間が私と父の会話を聞いたらなんて息子だと呆れ果てる事だろう。
「稔彦や奨を交えて話せば懐柔できると思ったか?貴方らしくない誤算だな。」
 いや、父の計画は半分は成功しているのだ。現に稔彦の私を見る表情が怯えを含んだ物になっている。この生活を大切にしている私にとって、皆に嫌われるのは最も避けたいパターンの一つだ。
 多分父はこれから優しく私に説得をし、頑として断り続ける自分を見て悲しそうに私が如何に大切かを語って聞かせ、最後には一歩退いて自分の意見を押し付けた事への謝罪を申し立てるだろう。私にそんな手は効かないし、奨にもその手は効かない。しかし稔彦は別だ。純粋な稔彦には父のこの演技は見破れまい。
 父の計算どおり、私は『優しい父の言う事を聞かない嫌な奴』として稔彦の頭にインプットされる。あとはそれがきっかけとなって生活が崩れるのを待つといった所か。
「いい加減にしろ。こんな茶番、時間の無駄だ。」
 椅子から立ち上がり、真っ向から父を睨みつける。
「私は言語を有すれど犬である事に変わりないのだから、気に入らぬのなら殺せばいい。」
 この温かな世界を壊されるくらいならば、いっそ殺された方がよっぽどマシというものだ。
「弘樹…」
 その言葉に悲しみの入り混じった声で私の名を呼んだのは父ではなかった。
 稔彦が私を悲しそうな目で見つめながら呟いていたのだ。殺すという言葉に反応したのだろう。目の前にいる父は平然とした顔をしていると言うのに。
「交渉は決裂だ。いつまでも居座るのは最善策ではないと思うが?」
 元々固かった決意が更に硬度を増したように思う。
 私を私として扱ってくれるのは、温もりを与えてくれる稔彦と奨と輝だけなのだ。
「わかった。今日はこの辺にしよう。だがね、来週も来させてもらうよ?お前の婚約者が決まりそうなんだ。……それでは失礼しました。」
 貴方はいつも、私の存在を否定する。私の中に宿った筈の温かな温もりを蹴散らして、そこに絶望を植えつける。
 今度こそ、私は温もりを手放さない。貴方の好きにはさせない。
「見送りはしてくれないのか?」
 厚かましい父の声。決意を新たにした私の前では意味を成さない言葉だ。だから私は父が今一番聞きたくないであろう言葉で送り出してやった。
「ぅわん!」
 精一杯の憎しみを込めて吠えてやると、父の顔が一瞬ピクリと痙攣した。丁寧に作られた化けの皮が一瞬だけはがれそうになる。父はそれを抑えて足早に家から出て行った。  爽快だ。そう思うのに、体はそれに反して一気に力が抜けて椅子にへたり込んでしまう。
「何故…?」
 目の前がかすんだかと思うと、頬に熱い液体が伝った。
 私は父と対等に戦った。泣く必要性なんて一片たりとも有りはしないというのに。そう思っているとふとある文献を思い出した。それによると涙はストレス物質が大量に発生した時に、それを体外へと排泄させる作用があると書かれてあった。という事は私にとって父との会話はそれ位ストレスを感じさせるものだったという事か。
 名目上は客である父を見送りに行っていた二人が戻ってくる。稔彦はぎょっと目を見開いておろおろとし、奨はそんな稔彦を見て苦笑しながら私に微笑みかけた。
「良く頑張ったね。」
「奨…」
 奨は私の奮闘に気付いていたらしく、両腕を私に伸ばして頭を力強く撫ぜてくれた。元々が人の身である私にとって、人間でいる事は正直に言うなれば楽であり心地の良いものだ。会話をして互いの意思を通じ合わせる事が出来るのは人間であるという事の一番のメリットだろう。
「弘樹はまだ人間のままなのか?」
 少しギクシャクした感じで稔彦が問いかけてくる。私が小さく頷くと、稔彦は何やら納得した様子でマグカップを持って台所に向かった。
 稔彦は何もなかったかのように振舞おうとしているのだろうが、それがかえって違和感を醸し出している事に気付いていない。一生懸命になっているのが伝わってきて嬉しく思う反面、複雑な気分はぬぐえなかった。稔彦は私の事よりも父の言う音に耳を傾けたのだと思うと、悲しくなる。
「大丈夫だよ。」
 私が不安そうな表情をしているのに気付いたのか、奨が私の髪をぐしゃぐしゃと掻き乱すように撫ぜる。力強いその手は精神的に弱くなってしまっている私を強く支えてくれた。
「…弘樹、ほら。」
 私の目の前に湯気の出ているマグカップが置かれた。中身はホットミルクに少し蜂蜜を入れた稔彦特製の物だ。思わず顔を上げると、稔彦が私を見てにこりと笑いかけてきた。 「お疲れさん。これ飲めば少し落ち着くからさ。」
「ありがとう…。」
 私を心配する稔彦の姿からは私に対する嫌悪なんて微塵も感じない。それに対する安堵感というのは何よりも代えがたいものだった。
 結局私はその日はずっと人間として生活を送った。随分と久しぶりの為に少々戸惑う事もあったが、皆と会話するのも中々に楽しかったし、稔彦の手伝いをしたり、奨の肩を叩いたり、輝のレポートの作成を手伝ったり、充実したものとなった。


 太陽が昇るのを薄手のカーテン越しに見つめていた。太陽と共に目覚めるのは動物として当然の事であり、必須の事である。父が訪問してから一週間が経った。あの日は特別に人間として振舞わざるを得なくなってしまったが、私はまた犬としての暮らしを送っている。
 昔、私はマルスという名の犬を一頭飼っていた。小学校5年の時に知り合いのブリーダーから譲り受け、子犬の頃から育て上げ、噛まれながらも必死に躾をした。外界との接触を絶たれていた私にとってマルスは唯一の友人であり、家族らしい家族を持たない私にとって唯一の家族だった。
 長い年月を共に重ねるに連れて、私とマルスの間には何よりも強固な『絆』と呼べる物が存在するようになった。言葉は通じなくとも互いに相手を見れば何を考えているかがわかったし、私にとってマルスが大切なものであるのと同様にマルスにとっても私はかけがえの無いものであったのではないのだろうかと思う。
 しかし、そんな幸せは呆気なく終わりを告げた。
 私が大学を出てすぐの頃、父が私を次期社長にするべく色々と根回しをしている時だったろう。父の言い付けに背いて家を出ようとしていた私を、父が問い詰めて殴った。今までろくな反抗をしなかった私の突然の反逆に父は逆上して、近くにあった耐熱ガラス製の重い灰皿で私のこめかみを思い切り殴りつけた。
『お前に拒否する権利など無い!』
 一度火の付いた怒りは滅多に収まる事は無い。最初の一撃で気絶寸前になった私を、父は何度も殴り、何度も蹴り飛ばした。徐々に目の前が白くなり、意識が遠のいていく。死ぬのかもしれないと薄々感じ始めたその時だった。
『うわぁっ!!』
 父の悲鳴と動物の唸る声。頭から流れてきた血が目に入って辛かったが、私は必死に目を開けて今すぐにも遠のいてしまいそうな意識を無理に引っつかんで目の前の光景を見た。灰皿を高く掲げた父と、その腕に噛み付いてるマルスの姿。庭に続く窓は開き、部屋の中にはマルスの足跡がついていて、噛まれた父の腕からはおびただしい量の血が流れ、マルスは父に何度も殴られて父よりも大量の血を流している。しかし、殴られても血を流してもマルスは父の腕を放そうとしなかったし、悲鳴をあげる事も無かった。
 意識は、そこで途切れた。
 次に気が付いた時には自分は病院にいて点滴を打たれていて、体中に治療が施されていた。後に聞いた話だと、一週間近く死の淵を彷徨ったそうだ。
 そんな私が漸く目を覚ました私に、丁度面会に来ていた父が笑いながら話しかける。その口元には楽しそうな笑みが浮かんでいた。

『あの犬を処分してきた。』

「っ!!」
 思い出すだけでも吐き気を催すような父の笑み。マルスはあんな奴に殺された。そう思っただけで体中に怒りが渦巻き、出口を求めて蠢くのがわかる。
 犬となったのはそれからすぐの事だった。最後まで父の命を聞かずに私を守り続けたマルスのように私もなりたかった。どんなに辛くとも彼に服従する事無く、父の思い通りになるくらいならいっその事マルスのように死んでしまおうと思った。…私は、絶対に父の言いなりになどならない。
 私が犬となったのは、その決意の表れだ。
「ぅぅ…」
 小さく唸りながら伸びをし、ベッドから起き上がると、いつものようにドアを手を使わずに開けて隣の稔彦の部屋の前に座った。今日は奨が仕事で夜まで帰ってこないが、輝と稔彦が家にいる。冷めた餌を食べるよりは温かな出来立ての餌の方が良いと思うのは人間だけに限らず犬である私も同じで、私は少々軽い足取りでドアに近づき、両の前足でドアをがりがりとひっかいた。
「くぅぅ…ぅ」
 鼻にかかった声で餌をねだる。それを数十回ほど繰り返すと稔彦の怒鳴り声が聞こえてきた。
「あぁもう!うるせぇっ!!」
 稔彦の寝起きは悪い。いつも和やかな雰囲気を纏っているから、寝起きの凶悪さは輪をかけて恐ろしいものに見える。しかし私も退く訳には行かない。今日は土曜だから休日だと思い、日の出が見える時間に起きながらも私は八時まで朝の分の餌を待っていた。もうそろそろ限界というものだ。
「わぅっ!!」
 小さく吠えると、目の前のドアが開いた。寝起きで不機嫌そうな稔彦だったが、私を見て小さく苦笑した。
「ごめんな。遅くなった。」
 いつもは六時くらいに起こしていたから稔彦はすまないと思ったのだろうけれど、私なりの配慮だったのだからそのようにすまなそうにされると悲しくなってくる。
「ふうぅ…くぅ…」
 甲高く鼻で鳴き、そっと体を摺り寄せる。余り気にするなと伝えたかったのだが、うまく行っただろうか?心配そうに見上げると稔彦はニッと笑い、私の頭をぐしゃぐしゃと撫ぜた。
「弘樹なりに気ぃ使ってくれたのか?ありがとな。」
 理解されるというのは中々に嬉しいものだ。私は先に降りる稔彦の後を付いていくように階段を下りようとしたが、稔彦に制される。
「悪いけど、下に行く前に輝の事起こしてくれないか?食べ物作るなら一緒に作った方が早いしな。」
「わふっ。」
 私は了承の意で短く吠えると、輝の部屋のノブに飛びついて無理矢理ドアを開けた。そのまま勝手に侵入してベッドに寝ている輝の腹に前足を置く。徐々に前足にかける体重を増やしていくと、輝は最初苦しそうに唸るだけだったがすぐに目を覚ました。
「弘樹、その起こし方は止めてよ…」
 せっかく良い夢見てたのにな〜。と不満そうに呟きながら輝が私の頭をぽんぽんと叩いた。
「あのね、凄い良い夢見たんだよ〜?教えてあげようか?」
 満面の笑みの輝は私がウンともスンとも言っていないのに照れたように頬を赤く染めながら勝手に言葉を続けた。
「店長とデートする夢だったんだ〜〜!!」
 どうやら輝は本気でその人のことが好きらしい。稔彦に言っていた『好き』の時と明らかに目の輝きや顔の緩み具合が違う。輝の好きになった人の性別は余り気にせずに、輝が幸せになれば良いと祈っておこう。
「で、何?弘樹が僕を起こすなんて珍しいよね。」
 私は返事の変わりに輝の手を軽く掻いて部屋の外を目で示した。
「あー、ご飯の時間か。ありがとうね。」
 まだちょっと寝ぼけ気味の輝は首が取れるんじゃないかと思うくらい勢い良く頷いてのろのろと立ち上がった。
「行こうか。」
 足取りが覚束ない輝が少し不安であったが、纏わりつくと返って危ないだろうし、私はハラハラとしながら輝が階段から降りるのを見つめていた。
「ん?どうしたの?」
 当の本人はというと自分がどれだけ危険な足取りかを知らずに普通に振り返ってそう聞いてくるのだから…。こんな時、奨の言っていた言葉をいたく痛感する。
 『少々手がかかったり、不安になって見てられないと思う事もあるけれどね、皆は私にとって誰よりも大切な子供達なんだよ。』という言葉。まったくその通りだ。
 私達が下に行くと、稔彦がトーストを載せた皿をテーブルの上に置いていた。稔彦は満面の笑みを浮かべて私達を見つめた。
「丁度できたてだから、旨いぞ。」
「ハムチーズトーストだぁ!いただきます!!」
 嬉しそうに声を上げて自分の席に着いた輝はすぐにトーストに噛り付いた。そんな様子を満更でもなさそうに見つめ、稔彦が私の分のトーストを置く。勿論犬である私の食べやすいように細かく切ってあり、火傷しないようにと少し温くなっている。
 そんな小さな稔彦の気遣いを嬉しく思い、それを伝えるべく体を擦り付けた。そんな私の髪を稔彦が撫ぜる。
「きちんと残さず食えよ?」
 耳元で有無を言わさないような低い声で脅される。勿論それが冗談半分である事を知っているし、稔彦の作ってくれた美味しいそれを残すような事はしない。
「わふ。」
「ん。待て。……よし!」
 よしの掛け声と共に私は皿に顔を突っ込む。なんて事は無いこの日常に満足していると、チャイムが鳴った。
「稔彦、お客さんっぽくない?」
 輝がトーストに噛り付いたままで問いかける。稔彦は小さく溜息をついた。
「この間しつこい勧誘が着てさ、あんまり出たくないんだよ。」
「そうだったの?じゃぁ出なくていいよ。」
 あっさりとした輝の答えに稔彦が頷いたが、これが宅配便だったら配達員に二度手間をさせてしまうのではなかろうか?
 しかし目の前に餌がある私はその言葉を無理矢理しまいこむと、再びトーストを食べる事に専念した。
「ご馳走様。」
「早っ!ちゃんと味わって食えよ。」
 早くもトーストを食べ終わってしまった輝に稔彦が呆れ半分にそう言う。その言葉に輝がばつが悪そうに笑う。その瞬間だった。
 ゴトン、という音が上から響いてきた。何か固くて重いものを落したような響く音だ。ぎょっとして私達は視線を合わせる。突然無言になって耳を済ませると、微かな足音が二階を動き回っている事に気付いた。
「うぅぅ…」
 二階に向かって唸り声を上げると、稔彦と輝は互いに顔を見合わせた後に小さな声で会話を始めた。
「もしかして、泥棒かなんかか?」
「まさかぁ…」
 乾いた笑い。だが、もしも泥棒ならばそれなりの事をするべきだろう。そう思った時だった。足音が階段を下り始めたのだ。笑いを浮かべていた輝の顔が一瞬にして絶望に染まる。
「人がいたのか。」
 くぐもった知らぬ声。急いで振り返ると、居間の入り口に一人の男が立っていた。マスクをつけて濃灰色のスーツを着ているその男は一見するとどこにでもいるサラリーマンのように見えた。
「っ!」
 輝か稔彦か…息を飲むような音が聞こえた。その男の持っている異様にぼこついた短めの鉄パイプを見たからだろう。所々付いている汚れが血の跡なのではないかと想像し、恐怖が勝手に膨れていく。
「警察呼ぶぞ。」
 掠れた声で稔彦がそう言うが、男は小さく不敵な笑みを浮かべると持っていた鉄パイプで壁を思い切り殴った。鈍い音に体をすくめると男は笑みを浮かべたまま淡々と話し始める。
「警察を呼んでから来るまで大体五分から十五分かかると言われている。警察を呼んだ所で俺には十分すぎる時間があるな。…その間に少なくとも三人は殺せる。」
 最後の言葉には脅しのニュアンスは含まれていなかった。ただ、真実を淡々と述べるのみの男に必要以上の恐怖を感じる。それは二人も同じ事だろう。
 私は二人を守るように男の前に立ちふさがっていた。…とは言っても犬だから四足で立っている為に威嚇にはならないだろうが。
「何だこいつ。」
 あからさまに怪訝な顔をする男。私は唸り声を上げながらじりじりと間合いを詰めていく。
「弘樹駄目だ!待て!!」
 犬にとって飼い主の命令は絶対だ。しかしそれが通じないパターンだってある。目の前の人間が自分の飼い主に被害を与えるような存在である場合、犬は命を張ってでも飼い主を守る。…それが、犬というものだ。
「何なんだ、お前。犬みたいに唸りやがって。」
 唸る私を見て嘲るように男が呟くと、鉄パイプが勢いよく振り下ろされた。それを素早くかわすと、その腕に噛みいた。人間の退化した歯では生の肉を噛み千切る程の威力は無かったようで、皮膚を破り、肉を少々傷つけただけで終わってしまう。
 男が腕を振るうと簡単に口から腕が外れてしまった。頭から床に落ちそうになるのを止めると、鈍い音と共に目の前が真っ暗になった。
「「弘樹!!」」
 薄く目を開けると私の事を心配そうに見つめている二人の姿があった。私の心配なんてしなくて良いから、自分の心配をすれば良いのに。
「ったく…」
 そう言って男は私の鳩尾に強く蹴りを入れた。
「かは…っ!」
 呼吸が一瞬だけ止まり、先程食べたものが逆流しそうになる。それを無理矢理抑えると激痛がゆっくりと腹部を侵食してきた。
「犬が人間様に適う訳ないだろ。」
 相も変わらず笑みを浮かべたままの男はそう言って二人に向き直った。矛先が私から二人へと切り替わる。輝をかばう様にして稔彦が一歩前へ出た。その足は微かに震えていたが顔にはそれを少しも出す事は無い。
 二人を傷つけたくない。そう思ったら痛みがどこか遠い場所に感じられた。立ち上がると体がぐらついたが、それでも私は男に襲いかかっていた。
「っ!くそ!!」
「ぐぁっ!」
 すぐさま反撃にあい、床に倒れる。殴られた横腹はジンジンと熱を持って、身動きをするだけで体がきしむような感覚を覚えた。
「この野郎!」
 逆上する男に、蹴り飛ばされる。そのまま男は二人の方を向いた。男の怒りが二人に向けられる。
 マルスは私とは違い一声も悲鳴を上げなかった。マルスは私とは違い一度噛み付いたらずっと放さなかった。マルスは、強かった。私はマルスのようになりたかった。  …私はあの頃と変わらないのか?この生活を守るといっていたのに、その結果がこのザマか?そしてまた失うのか?大切なものを、目の前で…?
「待て…」
 体はきしみ、痛みに眩暈を起こしそうになるが、それでも私は立った。…二本の足で人間として立ち上がり、真っ直ぐに男を見据えた。
「まだ立てるのか。」
 苦々しく男が呟くが、私は育った環境上の理由で普通の人間よりも打たれ強くなっている。小さく苦笑するとゆるく構えて相手の動きを見た。
 マルスは強かった。私の静止を聞かず、なりふり構わずに父に向かって行った。…きっと、今の私の気分と同じなのだろう。自分が犬であるとかそういうのはまったく別の次元の話しとなり、全力を出して相手をとめる事しか頭にない。
「私は…私として彼らを守る。」
 それが、人間の時に大切なものを失い、犬となっても大切なものを何一つ守れない薄弱な私の出した答えだ。
「いい度胸だ。」
 男が有利なのは体力の差もあるが、一番は凶器を持っているからだ。それが攻撃範囲を広くすると共に強力な攻撃を与える。私もそれに対抗する凶器を持つか男の持っている凶器を奪うかすれば勝てるだろう。または、それ以上の攻撃を与えるか…。
 輝と稔彦が男を抑えようとするが、私はそれを睨んで止めた。ここで二人に怪我をされては意味が無いのだ。二人に目配せをしていると、その隙にガン、と肩口に思い切りパイプが当たる。男が殴りかかってきたのだ。すかさず何回も肩口に攻撃が加えられていく。 「っ……!」
 その場に屈み込む私に、男が思い切り鉄パイプを振り上げた。それをギリギリでよけると、床に勢い良く鉄パイプが叩きつけられ、勢い余って男の手から滑りそうになる。体勢を立て直した私は慌ててそれを拾おうとした男の首筋めがけて肘を入れた。正確に言うと頭と首の境を狙って、だが。
 思わず力を手加減してしまったが上手く入った。そう思った途端、男の体が傾いでばったりと倒れる。ハッとして見ると男は気絶していた。
「まだ仕返しが済んでいないというのに…」
 そう呟くと、目の前が一気に歪んできた。気が付けば、服代わりに着ている自分の毛布が赤く染まっている。どうやら相当な出血をしているらしい。
「弘樹!しっかりしろ!!」
「弘樹、嫌だよ、しっかりしてよぉ!!」
 二人が駆け寄って私を抱きしめて揺さぶったり大声で呼んだりする。怪我人には安静にさせるべきだというのに、二人はそんな事を考える余裕すら無いようで必死に私の名を呼んだり、体を揺さぶったりしている。
「落ち着け。こういう時は救急車と警察だろう。」
 私の言葉に、稔彦が頷いた。


 目覚めたくない。もし目覚めた時に再び大切なものを失ってしまっていたら私はどうしたら良いのだろう?
「……」
 そう思っているのに私は浅い眠りから目覚めた。白い天井に白いカーテン。消毒薬の匂いと遠くから聞こえる人のざわめき。…病院だろう。
 父の姿が無い事に私は安堵していた。
「弘樹、起きたのか?」
 安堵していたというのに、カーテンの外から聞こえたのは紛れも無い父の声だ。私は暫く返事をするのを躊躇ったが、意を決して返事をした。
「あぁ、起きたが?何か用か?」
 私の言葉にカーテンが開く。そこにはあからさまに不機嫌そうな顔をした父の姿があった。包帯だらけの私を見て眉をひそめる。
「今回のが良い経験になっただろう。」
 ザマぁみろとその顔にありありと書いてあって私は笑ってしまった。そんな私を怪訝な顔つきで見ながら父が言葉を続ける。
「これに懲りて、もう二度と家出をしようなどとは考えない事だな。来月には婚約者と結婚してもらう。」
 父の言葉に私は何も感じられなかった。言いたい様に言っていろと心の中で呟く他は、波風一つ立っていない。
「わかったな?」
 念を押すような父の声。だから私は父が最も嫌うような言葉を思い切り並べ立てた。犬としてではなく、はっきりと父に伝わるように人間の声で。
「いい加減にしたらどうだ?私がはっきりと言わなければ図に乗って…。言っておくが、私は何一つ後悔などしていない。むしろ貴方から離れる事が出来て清々しているんだ。良いか?これから言う言葉は犬としてでも人間としてでもない、私自身の言葉だ。」
 初めての私の暴言に父の顔はまるで鳩が豆鉄砲を食らったごとく、目を丸くして瞬きすらしなかった。
「婚約者だの次期社長だのと勝手に決めているのは構わないが、何度そんな気は無いと言ったら理解できるようになるんだ?貴方は私が嫌いで私も貴方が嫌いなのだからわざわざ関わってくる必要性など皆無だろう。私は貴方の玩具では無い。だから貴方の思い通りにはならない。」
 一息にそう言うと、心の中のもやが一気に吹き飛んで行ったような気がした。
「だからと言って私に関わる人達に手を出すような真似はするな。何かあったらすぐに私は貴方の会社を倒産するように仕向けるから、そのつもりで居るように。貴方が色々と裏で汚い事をやっているのは小さい頃から良く見ていたんだ。ニュースも色々とネタを探しているから、丁度良い標的になるだろうな。…名誉も何もかもを奪って惨めに死なせてやるから、覚悟しておくように。」
 すべてを言い終えるとバタンと音がして父の姿が消えた。…体を少し動かしてその姿を探すと、父は卒倒していた。ショックが強すぎたんだろうな。そう考えていると、廊下から聞き覚えのある声が聞こえた。
「稔彦に、輝か?」
「あー、ばれてたよ。」
 名前を呼ぶと、稔彦がひょこと顔を出してすまなそうに頭を掻いて部屋に入ってくる。その後を付いて輝も来た。
「立ち聞きするつもりは無かったんだよ?ごめんね。」
「別に、気にしていない。それより父を何とかしてくれないか?倒れてしまった。」
 ベッドの傍で横転している父を指差すと、輝と稔彦は暫く悩み、迷わずナースコールを押した。
 暫くすると看護師の人が駆けつけて、父を他のベッドに寝かせるといって運んでいった。理由を問われて私はとっさに、私が目を覚ましたら感動の余りに気を失ってしまったなどと笑いのこみ上げてくるような嘘をついてしまった。
「…にしても、あんな雰囲気の弘樹初めて見たからかなり驚いたんだけど。」
「機嫌の悪い時の稔彦の真似をしてみた。」
 私の言葉に稔彦は一瞬呆気に取られ、そして数秒後に笑い始めた。
「効果は絶大だったみたいだな。」
「確かに。これで二度と会うことがなくなればいいのだが…。」
 きちんと諦めてくれるかどうか…。
「大丈夫だって。来たって俺達が追い払うよ。な?輝。」
「そーそー。弘樹が体張って守ってくれたし、今度は僕達が弘樹の事守るからさ。それにいざとなったら、僕が嫁にもらいますって言えば万事オッケーじゃない?」
「それはどうかと思うが。」
 輝なりの励ましに笑いを浮かべると、輝も笑いを浮かべた。と、遠くから微かに聞こえる駆ける足音。人の足音は結構特徴を持つ。…私は必死にかけている奨を想像して声を出して笑った。
「どうした?」
 突然声を出して笑い始めた私に稔彦が問いかける。
「奨が来る。必死に走ってるぞ。」
 そう言うと、丁度奨が息を切らして病室に駆け込んできた。丁度良いタイミングだ。そう言おうとした途端、奨の怒声が響いた。
「なにをやってるんだっ!」
 私だけではなく、輝や稔彦もその声に首をすくめてしまう。憤怒の形相は一瞬にして今にも泣きそうな表情に変わり、ベッドに上半身だけを起こしている状態の私を抱きしめた。
「どれだけ心配したと思ってるんだ…」
 私を抱きしめる腕は細かく震えていて、私の頭を何度も撫ぜた。私は二人を守ったというのに奨は泣いている。それが何故なのか私には一瞬理解できなかった。
「……痛かっただろ…?」
「奨…」
 奨が震えているのは泣きそうなのを堪えているからだと、その時初めて気付いた。私は二人を守ったけれど、奨を心配させてしまった。
 あぁ、そうか…これでは駄目なんだ。
「ごめん、なさい…」
 言葉が自然と口から零れていた。
 心配かけて、本当に、ごめんなさい。
「…わかればいいんだ。心配したんだよ?」
 そう言う言葉はとても優しい。…この優しさを、この温もりを、皆が私に与えてくれたものを守る為に…
「奨、私は…私として生きる事にした。犬でもなく、人間でもなく、私として。」
 そして私自身としてどこに続くかわからない私の道を行ってみよう。そして、私自身を強く鍛えよう。

 マルス、これが私の選択だ。お前が助けてくれたこの命がどこまで続くかわからないけれど、いけるところまで行ってみようと思う。
 父の思い通りに動く物でもなく、お前のように強く賢い犬でもなく、何の変哲も無い、ちっぽけな自分自身として。









(c)Kyouzaki