3.稔彦SIDE
俺が朝ごはんの片づけをしているとチャイムが鳴った。
今日は日曜日。輝の学校も休みだし、俺も勿論休みだ。弘樹はいつも通り家の中でパソコンをいじっている。…ただ、今日は奨が大事な商談があるらしく仕事に行ってしまうのだ。
「奨、ジェイさんが来たよ?」
ジェイさんというのは奨の右腕と言われている、組織の中でも優秀な人だ。初めて会った時は、奨を迎えに来るはいいけど、何をやって良いかわからずに困ったような顔をしながら奨の後をついて回ってたのに。
「もうそんな時間か…」
最近のジェイさんは、奨のスケジュールを管理したりとかしているらしい。殆ど有名人のマネージャーみたいな感じの仕事もするんだな…。
「おはようございます。」
外から聞こえる高く澄んだ声に俺は慌てて玄関へと走ってドアを開ける。そこにはいつも通りの笑みを浮かべたジェイさんの姿があった。
「ジェイさん、おはようございます。」
「稔彦さん、おはようございます。奨さんは…?」
可愛い人だよなー。モデルとか有名人とかの目立つような綺麗さじゃなくて、見ていて安心するって言うか、そんな感じだ。
赤毛という表現が凄い似合うような肩くらいの長さの髪を後ろで結わえ、黒縁の眼鏡の奥には青緑の綺麗な瞳を持っている。とても柔和な顔つきで優しいし、俺は結構ジェイさんが好きだ。
断じて、俺より背が低いから優越感に浸っていると言う訳ではないからな!
「あぁ、少し待っていてくれないか?」
俺の後ろから顔を出して奨がすまなそうにジェイさんに声をかける。ジェイさんは意外そうに奨を見つめていたがすぐに頷いた。確かに、奨がこうやって時間を忘れるなんて滅多にないもんな。
「わかりました。ちょっと早めに来てしまいましたし、大丈夫ですよ。」
「ありがとう。10分で終わる。」
そう言うと奨はそそくさと二階に上がっていった。それと入れ替わるように背後に新たな気配がする。
「じゃあさ〜!待ってる間コーヒーでもどう?僕が淹れてあげるよ」
視界の端からにゅっと腕が伸びてきて、ジェイさんの手をそっと握る。間違いなくそれは輝のものだろう。戸惑った様な表情のジェイさんが可哀想で俺は思わず輝の腕をぎゅっと抓った。
「―っ!…ダメかな?」
痛みに耐えながらも輝は甘えるような声を出して相手の顔を覗き込んだ。勿論、人のいいジェイさんがそれを断る術も無く。
「では、お言葉に甘えさせていただきますね。」
と、にこっと微笑んで俺を見る。その視線に、輝さんを怒らないであげてくださいね…というニュアンスが含まれていたので俺は大きく頷いた。
…後で軽〜〜くお灸をすえるから、安心してください。
「うちの輝が我侭を言ってしまってすまなかったな。」
居間のパソコンをいじっていた弘樹は、ジェイさんが居間に入るなりそう言って頭を下げた。
「いえ、こうやって皆さんとお話できますし、嬉しいですよ。」
ジェイさんの返事に弘樹が安堵の表情を浮かべる。…奨といい弘樹といい、いかにも保護者です!って感じの表現するよな。いや、別にいいんだけど…。時々、自分が子供扱いされているような気がして悲しくなる時がある。
「はーい、コーヒーだよ!ジェイさんはミルクたっぷりだよね?」
最近気付いたのだけれど、輝は人に嫌われるのを嫌う。大体の人はそうだろうけれど、輝はそれが輪をかけたように酷い。年甲斐も無く人に甘えるのも、相手に好かれようという一心の事で、相手の好きなものや気に入った事はすぐに覚える。
…きっと愛情って言うか、そういうのが欲しいんだろうな。そうは思うけれどこの甘えようはさすがにヤバイだろう。大人として。
「わぁ…凄い美味しいです。」
満面の笑みを浮かべるジェイさんに、その場にいる全員が和やかな雰囲気に包まれる。癒し系ってこういうのを言うんだろうな。
暫くの間俺達はジェイさんと他愛もない会話をした。この間テストがあって赤点ギリギリだったとか、バイト先のバーで料理の腕が上がったと褒めてもらえたとか、自分が投資していた会社が爆発的な上がり値を更新しているとか…。誰が何言ったかよくわかる会話だ。
「皆さん楽しそうで何よりです。奨さんが皆さんを大切にする気持ち、よくわかるなぁ…。」
しみじみと言った様子でジェイがそう言う。そんな彼に輝が首を傾げた。
「ジェイさんは?最近良い事あった〜?」
「わ、私ですか?」
戸惑ったような表情を一瞬浮かべるものの、ジェイさんはすぐに明るい笑みを浮かべて言葉を続ける。
「そうですね…。全世界規模で孤児院の運営を任されたんです。凄い光栄なんですけど…ちゃんとやれるか考えると、ちょっと不安で。」
照れたような表情の後に垣間見える不安そうな顔。そんなジェイさんの頭を弘樹がくしゃくしゃと撫ぜた。
「大丈夫だ。奨はお前の力量をきちんと見極めている。…不安になるのは仕方がないが、まだ何も始まってないなら悩む前に行動したほうが良いんじゃないのか?」
最もな答えだし、弘樹なりに励ましてるんだろうけど…ジェイさんは弘樹よりも年上だぞ!?そんな事年下に言われたら嫌な気分になるんじゃないのか?
俺の心配とは裏腹に、ジェイさんは嫌な顔一つせずに大きく頷いた。
「ありがとうございます。…頑張ってみますね。」
ほんわかと温かな空気に包まれていた居間のドアが開けられる。そこにはいつも通り黒い服に身を包んだ奨の姿があった。
人間って服が変わるだけでこんなに雰囲気が変わるんだろうか?のしかかってくるような威圧感が奨からジンジンと伝わってくるのがわかる気がする。これが大物のプレッシャーって奴なのかもしれない。
「ジェイ、待たせて悪かったね。行こうか。」
口調はとても穏やかだけれど、凛とした声音。多分ここにあるのは、いつもの奨と仕事の奨が混じった奨の姿なんだ。
…僅かに出てる雰囲気だけでこんなに強い存在感を出すんだから、純粋な仕事時の奨はきっと凄く凛としていて、尖ってて、まるで鋭利なナイフみたいな感じなんだろうな。
「いえ、大丈夫です。」
いつものんびりとしたジェイさんの声も、力強くなった。優しさと強さとを兼ね備えた本当の強さ、確固とした意思を感じられる。
「気をつけていってらっしゃい〜!!」
輝がぶんぶんと手を…いや、むしろ腕を振ると、奨とジェイさんが嬉しそうに顔をほころばせた。
「昨日聞いた話じゃ午後五時には帰宅予定なんだろうけど、変更があったら連絡してくれ。」
「わかっているよ。」
にっこりと微笑を浮かべて弘樹の頭を撫ぜると、奨が俺を見る。
その瞬間、ほんの一瞬だけだけど嫌な予感が俺の頭をよぎった。
「…気をつけて、な?」
そのせいで一拍遅れた言葉。奨はさして気にも留めずに頷いて手を振る。…心の何処かしらで、止めなきゃいけないと誰かが警告を発していたけれど、止めても何の解決にもならないとぼんやりと考えていたから。
…奨、大丈夫だよな?
元気に出て行く二人を見送りながら、俺は妙な感覚をむりやり胸の内に押し込んだ。
奨SIDE
物心付いた時にはもうその場所にいた。囚人同然の扱いをされ、人間として認められる事は無かった。虐待は日々の生活の上で基礎的な部分に存在し、毎日人が死んでいく。痣や傷が体から消えた日なんて無かった。先生と呼ばれる権力者は自分の感情のままに私や、私よりも幼い子供に手をあげた。
その場所は辺境の地の孤児院。私達子供は国の援助や金持ちの援助を受けながらも細々と生活をしていた。孤児院内の畑で取れたものを売りに出しては金を稼ぎ、その収入が良かった順でその日の食事を貰った。孤児院が私達子供に渡す食料は、人数よりも少なく、売り上げが悪い時は食事にありつくことが出来なかった。
それからわかるように施設の人間は私達を金と見ており、金にならない乳幼児などは何人も殺された。手間がかかる上に金を稼ぐ事のできない彼らは、施設の人間にとってはお荷物でしかない。私達の畑の肥料とされた意味不明の肉塊が一体なんであるか、私は幼いながらも理解していた。
施設の人間の狂気の矛先は勿論私達子供にも向けられた。乗馬用の鞭で打たれる事もあったし、熱湯や冷水をかけられる事もあった。食事を与えられなかったり、睡眠をとる事を許されなかったり、皮を剥がれたり、爪をはがされたり、髪を抜かれたり、汚物を食べさせられた事もあった。葬式ごっこと称して生きたまま埋められた事もあったし、施設内の子供同士で殴り合いをさせられた事もあった。冬の夜に水をかけられて庭に立たされたりもしたし、毎日無意味に片方のバケツに水を入れてもう片方のバケツに注ぐという精神に以上をきたすような単調な仕事をやらされたこともあった。
先生と呼ばれる彼らは親に捨てられた存在の私達はこのように生きさせて頂けているだけで有難いと刷り込み、それに反するものは事故を装って何人も殺害した。名目上の監視組織は先生から賄賂を受け取ってその事実をもみ消していた。その賄賂には金だけではなく、少女や少年に性行為をさせると言うものもあったし、現に私もその被害を受けた。
死にたくなければ彼らに従い、この生き地獄を生きなければならない。死んで地獄に逝くか、生きて地獄を味わうか…。一体どちらが楽だったのか私には理解できないけれど、奴らの思い通りに死んでたまるかという気持ちが私を支え、生き続ける事ができた。
私が何故そのような地獄とも言える施設に行く羽目になったのかは、施設から卒業という形で解放された後で知る事となる。
施設から卒業した私は仕事の仕方も文字の読み書きすら教えてもらっておらず、行く当てもなく彷徨っていた。施設の人間は自分達の犯した罪を私達卒業生が話さないように人とのコミュニケーションの方法を失わせた。現に私以外の卒業生の殆どは言葉を失い、「あ」や「を」などの単純な音とボディーランゲージで会話するしか出来なくなっていた。
行く当ても無く、帰る家も無く、ただこのまま都会の喧騒に飲み込まれて死んでいくのだろうと思っていたそんなある晩に、突然暴漢に襲われて連れてこられた何処とも分からぬ場所で私は父だという人に出会った。
『貴方が…私の、父?』
唖然とする私を眺めながら、彼は大きく頷いた。
『そうだ。』
彼は、自分が世界中にその触手を伸ばす闇の世界を統括をしているという事、私に世界の闇を教える為に孤児院に入れた事、そして正式に私を次の統括として迎えようとしている事、すべてを教えてくれた。
彼が期待に満ちた目で私を見つめるが、私は暫くの間言葉を返す事が出来なかった。今まで私が受けた、あの施設に入っていた孤児が受けた事を考えると、私は頷く事などできはしなかった。
『私にはそのような器はありません。』
まして、私達を苦しめた闇を自分の生きる糧にするなんてそんな事は私には出来ない。
私の言いたい事がわかったのだろうか。彼は…いや、父はこう言った。
『この組織は闇だ。闇は人を喰らい、己の糧とする。しかし闇は人に果ての無い安らぎを与える事も出来る。闇は悪ではない。闇を手にした人間が悪に染まっていただけの事…。この闇をどちらの闇にするかは、それはお前の手に委ねよう。』
そして私は世界の闇を手にし、司るようになった。
不治の病への特効薬だが認可されておらずに人の手に渡らない薬品、紛争の中で生き延びる為に必要な銃、死んでいった体を他の命を守る為のドナーとし、生きる上での収入の無い子供を雇って賃金を払い、自らそうすると言う決意のあるものには破格の金額を与え売春を行わせた。
これが、私の闇。永久の安らぎを与える為の闇。…しかし、誰かが幸せになれば誰かが不幸になるのはこの世界の道理というもので、私が一方の人間に安らぎを与えるという事はすなわち、もう一方の人間を喰らうという事でもある。
私はいつか、己の喰らった人の亡霊に殺されるのだろう。
そう決意していた。
だから今日起こった出来事は私にとっては些細なものに過ぎない。
北欧へと進出する為の取引は失敗に終わってしまった。まさか先代の頃から取引をしていた奴らに裏切られるとは思いもしなかったが、その甘さが今回の失敗を招いたのだろう。
突然の武装したグループが取引中に紛れ込み、私を拘束した。取引相手も馬鹿じゃないし、こっちだって警備はきちんとやっていたが、まさか取引相手が敵と組んでいるとは思いもしなかった。それにより完璧だったこっちの警備は一気に穴が開き、易々と武装グループを進入させてしまったのだ。
突入から私の確保まで一分もかからなかったのから考えると、こういう状況に慣れている者達の集まりなのだろう。
私は目隠しをされて両手両腕を拘束された状態でどこかへ連れて行かれた。床に放り投げられると目隠しを取られた。薄暗い八畳程の広さの部屋は、奥に机があるのが辛うじて見え、周りには何の家具も見あたらない。必死に目を凝らして中を確認していると、突然部屋の奥、机の方からライトが照らされた。眩しくて目を細めるとその光を背負うようにして一人の人が現れた。
「やっと…やっと会えた。」
いや、その人は元々そこにいたのだ。息を殺して机に…きっと椅子に座っていたのだろう。立ち上がると私の方へと向かってくる。歓喜に満ちたような、憎悪に塗れたような、そんな声で小さく呟きながら私の目の前に立った。
言語は中東の方でよく使われている言葉だ。多少訛りが入っているが、きちんと聞き取る事ができる。
「漸く会えたな。」
今度は、凛とした声ではっきりと私に向かって話しかける。その声は、若い青年の声だった。
漸く、会えたと青年はそう言った。…という事は何らかの情報で私の存在を知っていたという事になる。
私は闇組織の長を務めているが、私が長であると知っているのは組織の中でも幹部、幹部の中でも一握りの者だけだ。他の者は普通に組織の一員としてしか認識していないだろう。
どこかで情報がリークしていたのだろうか?そんな事を考えていると突然青年が動いた。頭で考える前に体が動く。…しかし私は手足を拘束されている状態で、動くと言ってもたかが知れていた。
「っ…!」
殆ど身動きの取れない私の腹部に、青年の右足が蹴りこまれる。息を殺すだけでむせなかったのは幼少期の虐待のおかげだろうか、などと下らない事が頭の片隅を通り抜けていった。
「やっと会えたよ。…ずっと、ずっとあんたを探していたんだ。俺達の人生を滅茶苦茶にした、あんたに!」
青年がそう言って部屋の電気をつけると間接照明の柔らかな光が部屋を包んだ。光に照らされてそこに現れたのは、見た事もない青年。という事はどこか他の組織のメンバーでもないという事。よって、この青年が私の組織を狙っていると言う可能性は皆無だ。
青年は最初にやっと会えたと言った。その言葉からも青年の目的は私であると推測される。
「なぁ、あんたにとっての命って何だよ?金か?それとも駒か!?」
ひざ立ちになると青年は私の髪を思い切り掴んで顔を上向かせた。褐色の肌に、漆黒のややうねった髪は、まさしく中東の方の遺伝子を持っているという証。
「何で答えないんだよ…?お前にとって、命はなんでもないものなのか!?」
苛立ちをぶつけるかのように青年が私の髪を持って更に上向かせる。ブチブチと髪の毛が何本か抜けるような音が聞こえた。
「命は、いつの時代も尊いものだよ。」
答えた途端、青年は小さく肩を震わせた。その震えは次第に大きくなり、そして最後には声を立てて笑い始めた。
「あっはっは!!笑わすなよ!」
「私は本気だよ?」
言い返すが青年は聞く耳を持たない。暫くただただ笑い続けていた。
「命が尊いだって?…くくっ…」
何とか笑いが収まってきたようで、青年は大きく息をつくと私を睨みつけた。さっきまで快活に笑っていた青年と同一人物とは思えない程の冷酷な表情を浮かべている。
「命が尊いだなんてあんたが思う筈が無い。だってあんたは人の命を食い物にして生きてきた奴なんだから。…命が尊いと思うなら、こんな仕事するはず無いだろ。今更偽善者ぶるんじゃねぇよ。あんたは唯の人殺しだ。」
「っ…」
そんなんじゃない、と言おうとして呼吸を止めて言葉を飲み込む。彼が私に突きつけたのは変えようの無い事実だったのだから。
いつも私の元には大義名分が在った。会社を買収する時も、法に触れる薬を流す時も、人を殺す時も、そこには必ず「人を守る為、助ける為」という大義名分が存在していた。
しかしどんな理由があろうと、人を殺すのは、人の命を奪うのは許される事ではない。幼い記憶、あの施設、毎日のように私の隣で冷たくなっていく同室の子の、寂しそうな笑顔、苦しそうな顔、辛そうな顔、そして…二度と戻らぬ命の抜けた肉の塊が、その身を持って私に教えてくれた事だ。
だから私は許されない。たとえどのような理由があろうと、人を殺してしまったのだから。この両手は、血に塗れているのだから。
「人殺しのあんたが殺されても当然だよな?あんたは今まで沢山の命を踏みにじってきたんだから。」
青年の言う通りなのだ。だから覚悟は出来ている。死にたいと願ってしまう程の苦痛を与えられながら嬲り殺されようと、何をされようと、構わない。ただ…ただ一つ、私の愛すべき家族に何事も無ければそれでいいのだから。
「そうだね。私は沢山の人を殺してきた。沢山の命を踏み台に、ここまでやってきた。」
心は穏やかだ。死に対する恐怖など微塵も感じられない。ずっと覚悟してきた事なのだから。だから、そんな感情など感じるはずが無い。
「君の好きなように殺せばいい。」
「は?」
本日二回目、青年は私の顔を凝視したまま驚きの余り言葉を失った。
「殺しなさい。それで君の気が済むならそれでいい。」
私の言葉を何度も反芻するかのように青年はじっと私を見つめたまま口を小刻みにパクパクと動かしている。微かな呼吸音すら聞き取れる沈黙が暫くの間続いた。
「何、言ってんだよ。」
髪を掴む彼の手の力が抜けて鈍い音と共に頭が床に落ちる。彼は顔を醜く歪ませて私を見る。
「死にたくないって叫べよ!無様な醜態をさらせよ!俺に命乞いしろ!!」
言いながら青年は刃渡りが二十センチ程のサバイバルナイフを取り出して私に突きつけた。そのままゆっくりと首に刃先が埋まっていく。痛みに顔を歪めると彼は至極嬉しそうに微笑んだ。
「なぁ、痛いだろ?死にたくないって思っただろ?」
「…確かに痛いけれど、死にたくないとは思わない。」
私の言葉に彼の嬉しそうな表情が一変し、ナイフを抜くとそのまま頬を薄く切った。辛そうな表情を浮かべて私を見つめる。
「きっとアイツは死にたくないって思ってた。痛くて痛くてしょうがなくて、きっと泣いてた…!」
そう言いながら感情の高ぶりでこめかみに血管が浮き出る。ナイフを床に叩きつけると青年は私に馬乗りになって頬を殴った。
「俺の妹はあんたの組織に殺された。娼婦として働かされて、その上臓器を抜き取られて…だから、復讐してやるって誓ったんだ。あんたを殺してやるって。あんたが無様に俺に命乞いするのを見て、鼻で笑いながら、滅茶苦茶に刺してやろうって。…それなのに、何で…何でお前はそんなに冷静なんだよ!」
彼が悲しそうに私を殴る。私を殴っているはずなのに彼は今にも涙を零してしまうんじゃないかと思う程悲しそうな表情を浮かべている。僅かに溢れた涙を拭ってやろうと手を伸ばそうとするが、拘束具に阻まれてしまった。
「私が命乞いすれば、満足するか?」
「しねぇよ!どうせそれは上辺だけなんだから…。俺はな、あんたに苦しんで欲しいんだよ。妹の味わった分だけ、苦しみを与えてやりたいんだよ!」
そう言うと、ふと青年の表情が変わった。悪戯を思いついた少年のような表情をして、そして次は残忍に笑う。
「そう言えばあんた、同じ家に住んでる奴らがいるんだって?」
「………」
私は反応を返さないように極力勤めた。もしもここで私が過剰な反応を示したら彼はきっと私では無く家族へと矛先を変えるだろう。
「そいつらを殺したら、あんたも少しは苦しむよな?同じ所に住んでたんだ。少し位は情が湧いてるだろ?」
「別に、私にとって彼らは関係の無い人達だよ。怪しまれないように共に暮らしているだけだ。彼らを殺しても、なんら影響は無い。」
冷静になって、必死に頭を回転させて答える。いかにも関心がなさそうに言えば、彼の興味は失われるだろうと思った。しかし私の予想とは裏腹に彼は嬉しそうに微笑んだ。残酷な笑みだ。
「あんた、さっき言ったよな?『命は、いつの時代も尊い』って。…そんな奴が、そんな事言うのか?」
「それは!」
否定しようと声を荒げる。その途端青年は満足そうに大きく頷いた。
「やっぱりな。あんたにとって、奴らはそんなに大切なんだ?」
「くっ…!」
悔しさの余りに唇を噛み締める。私とした事が、こんな失態をしでかすとは…!
「いいねぇ…。苦しめよ。もっともっと苦しめ。」
青年は立ち上がると床に転がっていたナイフを手にとって鞘に収めた。そして私を見下す。
「ここに連れてきてやるよ。あんたの大事な『家族』をさぁ。そしたらまずそいつをあんたの目の前でぶっ殺してやる。……っはは…はははっ!」
彼の目は本気だった。
「じゃぁな。楽しみに待ってろよ。」
彼が私に背を向けてドアへと向かう。私は素早く縄抜けをして両手を自由にすると気付かれないように足の拘束具を外して靴底を軽くいじって中から隠しナイフを取り出して彼に飛び掛った。
私の手が彼を拘束すると同時に彼が息をのむ。その手に握られたナイフを見て彼の体が震えた。
「っ!?」
「すまないね。…君に被害は与えたくないが、私の家族に手を出すならば話しは別だ。」
命自体に重さなど無い。しかし時にそれは人の価値観によって色づけされ、重さを伴う。その重さを左右するのはその時人の命を左右する人の価値観だ。
そして今、人の命を左右するのはナイフを持った私。私にとって彼の命と家族の命、どちらが大切かと言う問題が彼の命の重さを決める。
「君は私への復讐に心が満ちている。…だから、君はいつか私の家族へとその牙を向けるだろう。」
彼の命と家族の命。…天秤がどちらに傾くかなんて比べなくともわかる。
「だから、さよならだ。」
囁きかけ、私は自分を切り替える。
ここにいるのは私であるが、私ではない。自分の考えを貫く為ならば人を殺す事を躊躇わない、闇の組織の長だ。
ナイフを握ると、彼の首…動脈ではなく首の骨の間を狙って刃を向ける。ぐぅという空気の抜けるようなくぐもった様なそんな声を出して青年の体が床へと落ちる。彼の体をまるで荷物を運ぶように…いや、最早これは物体にしか過ぎない…部屋の隅へと押しやった。
彼が私の家族を知っていたという事は、ここにいる人達も私の家族を知っているという事。家族は私の唯一の弱点だからそれを突かれる事の無いように、私はここにいる人達をすべて抹殺しなければならない。早い話が皆殺しと言うことだ。
ナイフをきつく握り締めると私は大きく息をついた。肉弾戦を行うのは随分と久しぶりだから、うまく行かないかもしれない。でも、どうか、私の大切な家族に被害の及ばないようにするだけの力を、私に…。


(c)Kyouzaki