1.
 片手には書類の入った黒い革の鞄、もう片手には長年愛用している懐中時計。人ごみの中を会社に向かってせっせと走る。遅れたらどうなるか?そんな愚問の答えは一つしかない。…クビだ。
 そんな自分の後ろを追うようにして走る、学ランを着崩した上に金髪で口ピアスをした柄の悪そうな青年。
「よぉ、シロ。元気そうじゃねぇか。」
 走っていると言うのに息も切らさずそう言ってくるこいつが憎い。
「シロと呼ぶのは…やめてください…」
 呼吸と呼吸の間に言葉を発するとそれだけで体力を消耗する気がする。そんな自分を見た青年が楽しそうにクスクスと笑った。
「はいはい。それより、喋るなんて余裕じゃねぇの?遅れたらクビを切られんだろ?」
「貴方が…話しかけるからじゃ…ないですか…」
 話しながらも漸く会社に辿り着いた。会社の前には黒のベンツと、不機嫌そうに顔を歪める社長。
「社長、遅れてすみません!」
「出発時間の一分前。仕事は十五分前に付くのが基本だが?」
 顔だけ笑いながら怒られても怖いだけだ。叱られる俺を青年が楽しそうに見て笑っている。それに気付いて社長が彼に目線を向けた。
「おはよう。もしかしてこの馬鹿ウサギが遅れたのは君の責任か?」
「はぁ?俺な訳無いじゃん。こいつが走ってるから追いかけただけだし。」
 礼儀知らずな青年の言葉に社長は納得した様子で数回頷いた。
「まぁ、仕方ないか。こいつの遅刻癖はこの世界に来る前からの話しだからな。」
 突っ立って息を整えていた俺をギロリと横目で睨んで、社長が怒鳴る。
「早く車のエンジンをかけろ!」
「はい。」
 朝っぱらから最悪な一日だ。
 運転席に乗り込むと車のエンジンをかける。小さく唸りをあげるのを確認してからミラーの位置を確認し、車から降りて社長の乗り込むドアを開ける。
「社長、準備が出来ました。」
「わかった。行くぞ。」
 社長が車に乗り込み、ドアを優しく閉める。青年と目線をあわさないようにしながら運転席にのってドアを閉めると、コンコンと窓を叩かれた。反射的に振り返ると、青年が意地の悪い笑みを浮かべながら俺を見ていた。
「何か?」
 窓を小さく開けて問うと、青年は口の端を吊り上げて笑った。
「この世界、楽しいだろ?」
「楽しいのは君だけです。」
 そう言い放ってウインカーを出す。何かを言いたそうな青年の顔がサイドミラーに映ったが、気にしないに越した事はない。俺はアクセルを踏んで走り去った。
 なんてったって、あの青年こそが諸悪の根源。俺達の住んでいる世界をこんな変な世界に塗り替えた奴なのだ。その名も、アリス。
「社長…いつまで彼の茶番に付き合うおつもりですか?」
「別にいい。本質的には何も変わってないんだからな。」
 前を見たまま後部座席に座る社長に問いかけると、社長は満更でもなさそうに返してきた。
「ですが…!」
「私の好きな赤いバラはすべて社員になった。お前も秘書としていつも通りの仕事をしている。私も上に立つ者として日々をすごしている。…何の問題もない。」
 確かに社長のいう事には一理あるし、納得しろと言われれば納得できる。しかし、これで果たして本当にいいのだろうか?
「しかし女王!」
「私は良いと言っている。」
 頑として変わらない答えに俺は小さく溜息をついた。
「何故、こんな事になってしまったのでしょうか…」
 信号が赤になってブレーキをかけて停止した。バックミラー越しに社長が苦笑するのが見える。
「彼が、それを望んだからだ。この世界はすべて彼の幻想に過ぎない。…そう、すべてはアリスの思うがままだ。」
 Wonder landが聞いて呆れる。ハートの女王は社長に(しかも男に!)、白兎は秘書に、アリスは不良に。城はビルに変わり、国は街に変わった。何もかもが違う世界。…こんなところ、俺のいるべき場所じゃない。
「世界を創るものなら、何をしても良いと…?」
「そうは言わないが、すべてが彼の意のままに操られる。それは事実だ。」
 小さく呟いた言葉を社長に聞かれてしまい、恐縮する。社長はそんな俺を見て小さく笑うと前を指差した。
「ほら、青だぞ?」
 とりあえず今は進むしかないのだ。俺は気持ちを切り替えるとブレーキから足を離してアクセルを踏んだ。


 会議室を出てエレベーターに乗る。扉が閉まった途端、俺は小さく息をついた。
「漸く終わりましたね。」
 取引先へのプレゼンテーションはうまく行った。コストや利便性、リスクまで事細かに質問をされて確かな手ごたえを感じている。それは社長も同じ事で、不機嫌そうだった顔が今では満足そうに笑っている。
「中々の出来だったな。」
「ありがとうございます。」
 愛用のノートパソコンを鞄に詰めながら答えると、社長はあからさまに大きな溜息をついた。
「これで時間に間に合うようになれば完璧なんだが。」
「すみません。」
 確かに俺は時間に遅れてしまう。初代アリスに見つかった時も時間に追われていたし、二代目のアリスの時も時間に追われて走っているところに体当たりされたし、三代目のアリスの時は時間に遅れないように走っている所に熊用の罠を設置されて全治三ヶ月の大怪我、四代目アリスの時は……。
「しかし、これで契約は取れたも同然だな。」
 悪い方へ悪い方へと流れていく俺のスパイラルを断ち切るように社長が呟く。
「そうですね。」
「…なんだかんだ言いながら、お前が一番この世界に慣れているみたいだな。」
「は?」
 俺がこの世界に慣れている?冗談じゃない。俺は一刻も早く昔の世界に戻りたいんだ。
「時代は変わるものだ。世界も時と共に変わる。いつまでも動かないわけにはいかないだろう?」
 まるで俺の頭の中を見透かしたかのように社長がそう言ってくる。
「ですが…。」
 確かに歴代のアリス達の作った不思議の国を見ていると、徐々に変化している。時にそれは中世風の場所であったり、時にそれは近未来の世界だった。
 しかし現実世界に近いというのは不思議の国としてあってはならない事。現実と同じならば、不思議の国はその魅力を失ってしまう。
「お前にも、いつかわかる時が来る。」
 エレベーターの扉が開くと、社長がそう言って降りた。その後に続き、来た時と同様に車のドアを開ける。
「昼食はいつものところですか?」
「勿論だ。」
「わかりました。」
 運転席にのってシートベルトをし、安全確認の上出発する。一度会社に戻って資料を片付けてから向かうのは喫茶店。そこの料理はいつも絶品でマスターの淹れるコーヒーや紅茶は超が付くほどの一流品ばかりだ。
 車を駐車場に止めて大きな窓越しに中をのぞくが、昼の掻き入れ時だというのにそこの喫茶店はがらんとしている。料理が絶品なのにここまで客足が無いのはきっと、店主であるマスターの接客態度が問題なのだろう。
「相変わらずのようだな。」
 社長がそう呟くのを微かに聞きながらエンジンを切って車から出、社長が下りるようにドアを開ける。社長はゆったりとした足取りで喫茶店の中へと入っていった。
 カラン、とドアベルが軽い音を立てて私達が来た事を知らせる。
「ようこそ、暇人ども。」
 ドアベルと同じくらいの軽い口調で店長が相変わらずの不遜な態度で俺達に声をかけてきた。店の中には店長ともう一人、常連の客が座っている。
「会社の社長に向かって暇人とは…。」
 肩をすくめて社長がそう言っていつものテーブル席へと腰掛ける。それを見てカウンターに座っていた青年が楽しそうに笑って声をかけてきた。
「すげぇなぁ…。収益の何割か俺にくれない?最近金欠でさぁ。」
「お前が金欠なのはいつもの事だろうが。」
「仕方ねぇだろ?ここにはゲェムセンタァとやらがあって、チェス一つでも金がかかるんだ。」
 彼の言葉に俺は小さく溜息をついた。
「定職についたらどうなんですか?いつまでもフリーターではこの先が心配ですよ。」
「俺は天下のチェスマスタァだぜ?ゲェムをするのが俺の仕事だ。」
 天下無敵のチェスマスターはフリーターのゲームオタク…もとい、ゲーマーとやらに成り果ててしまい、ゲームセンターで収入の殆どを使い切ってしまうような存在になってしまった。
「もうそろそろゲェムセンタァの全部のスコアランキングを1位から5位まで俺の名前に出来るんだって。この世界でも一番なんて、俺って天才じゃねぇ?」
「それで、生きていく為の稼ぎはチシャ猫が払うのか?」
 浮かれているチェスマスターに社長のキツイ一言が突き刺さったが、当の本人がアウチ!と叫んで苦しむような仕草をしている時点で余り傷ついていないのが見て取れる。
「でもアイツは『貴方らしくて良いと思います』って言ってくれてるぜ?」
「そうやって寄生していくのか?」
 今日の社長は一段と攻めがきつい。たしかに、この世界になってからもう3ヶ月になる。お金なんて無くても生きていけた世界とは違い、この世界は資本主義であるからチェスマスターの稼ぎが無ければその分チシャ猫が苦しくなるのは目に見えていた。
 社長なりに二人の事を心配しているのだろう。
「ご注文をとっとと決めやがれ。」
 伝票を持って店長が私達の席に来た。
「ハヤシライス。食後にホットコーヒー。…零さないように。」
「へいへい。全く、零す零さないまで人に命令されるとは世知辛ぇ世の中だよな。ウサ公。」
「……そんな事言われても困ります。」
 俺の声と重なるようにドアベルが再び軽い音を奏でる。
「ようこそ、暇人。」
「あいかわらず嫌な接客業だな。お前。」
 嫌そうに眉根を寄せて入ってくるのはまさしくアリスの姿だった。こんな時間帯に外をうろつくなんて、学校は一体どうしているんだか。
「うるせぇな。早くご注文を決めやがれ。」
「肉がいいな。ハンバーグステーキとライス。大盛りで。」
 まるで指定席のように俺達のテーブルにつくアリス。驚きの余り声を失っていると店長が俺の頭を小突いた。
「ほらウサ公、てめぇのご注文は?」
「え、あ、トーストサンドと食後にホットのアールグレイを。」
「零していいか!?」
 まるで少年のようにきらきらとした目で見られるが俺は首を横に振った。
「零さないでください。」
「ちぇっ!以上でよろしいんだろうな?」
「あぁ。」
 社長が頷くと店長はカウンターの中に入って調理を始めた。
「皆、俺の作った世界は楽しいか?」
「勿論!!やっぱり機械が進歩するとゲェムも進化するからさ〜!やりがいがあるんだよ〜〜!!!」
 突然叫んだのは、言わずと知れたチェスマスターだ。カウンターの椅子に座ったままこちらの話しに参加しているらしい。
「ハートの女王はどうなんだ?こういうのも中々楽しいだろ?」
「まぁ、そうだな。自分の力が目に見えた形になるのはやりがいがある。…ハートの女王の時はもう出来上がった国を見続けるだけだったからな。」
 僅かに視線を遠くにやって社長がそうしみじみと呟いた。その言葉にアリスは嬉しそうに笑う。まるで、子供みたいに、何度も頷きながら…。
 その目に映った僅かな色が、哀愁を帯びていた。
「……」
 ここは夢の国。アリスの思うがままに形成される世界。夢が覚めるその時まで、ずっと続けられる仮初の日常。俺達は姿を変え、世界は形を変え、アリスの思うがままに変わっていく。
 そんな創造主であるアリスが、何故あのような表情をするのか。俺には理解できなかった。自分の望むがままに創られた世界にいるというのに、どうしてあんな顔をするんだろうか。
「俺のセンスがいいからだろうな。」
 その表情を消して彼が笑う。誰も気付かない一瞬の出来事だったけれど、確かに彼は…。










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