6.
 昨日のプレゼンの口コミが一夜にして広がり、会社が始まる時間になった途端に他社からプレゼンの依頼が殺到するという事態に遭遇した。嬉しい悲鳴を上げながら、時間に追われながらも俺達はそれの対応をした。
 プレゼンを希望する会社の一覧表を作り、社長の予定表と重ね合わせていきながらそれと並行して通常業務もこなさなくてはならない。愛用のノートパソコンもいつもの何倍ものデータを処理していくこの状況は、まさに猫の手も借りたいほどだ。
 目の回るような忙しさは昼を過ぎても尚終わらない。昼食の時間を取る片手間に仕事を、いや、仕事の片手間に昼食をとっている。目をずっとパソコンに向けているものだから目が乾燥して瞬きをするだけでも痛みを感じるほどで、目薬をさそうと思うのだが区切りがついてからでないと何処まで仕事を終えたかわからなくなってしまうので結局後回しになっている状態だ。
 きっと目は真っ赤に充血していることだろうと思いながら、片手でマウスを操作しながらもう片手で食事代わりのゼリー飲料を持っている。今休憩を入れると処理能力が一気に落ちてしまうであろう事は目に見えていた。だからこそ休めないのだ。
 それに何より、こま鼠も驚くほどの忙しさに追われているのは俺だけではないのだ。俺だけ休むなんて事はできない。その証拠に俺の周りの人も俺と同じようにパソコンに向かっている。
「稲葉、出来の方はどうだ?」
 社長がパソコンから目を離さないままに俺に問いかけてくる。俺は問われるとすぐに新しいウィンドウを開いて最新のデータを確認する。
「前回のプレゼンの時に出た疑問点を大まかに五つに分類して、対応策を書き上げている最中です。五項目のうち四項目は終わりましたので現段階のデータをメールで送ります。」
 メールソフトを開くと最新版のデータを社長に送付した。
 この間のプレゼンなのだからそのままデータを改定せずに参加させるのもまた選択肢の一つなのだが、やはり前回のプレゼンで質問を受けた所は時間短縮の為にもプレゼンの内容として組み込んでおいた方がいい。プレゼン自体の時間は長くなってしまうが、あらかじめ疑問に思われる部分を明確にする事で質疑応答の時間を少なくし、向こうに検討する時間を増やすのだ。
 それに自分の弱点を補修する事で隙が少ない、イコール信頼できる会社、と受け取られる。第一印象はやはり今後に繋がっていくので完璧に近い形にしておくに越した事は無い。
 プレゼンのリミットは本日の四時。しかしその時間にプレゼンを始めなければいけないので、正確には三時半までにはプレゼンの準備を万端にしなくてはならない。この対応策を後一項目書き上げ、社長にプレゼンの資料に目通ししてもらってから説明するに当たりもう一度資料に目を通す。
 言葉にすれば大して量もないし後もう少しだと思うだろうが、社長の目はどんなミスも許さない。それ故にプレゼンの質が高まる訳だが、このように時間の無い時ですら社長はそれを許す事は無いのだ。後三時間あっても足りるかどうか…。
 ゼリー飲料を飲み干すと俺は最後の一項目を書きだすべく、大きく息をついてからマウスを放してキーボードへと両手を置いた。
 愛用のノートパソコンのキーを叩く音が最初はゆっくりからダンダンと早くなっていく。手が言葉を考えるとほぼ同時に文字を入力できるように動き始めれば後はその流れに乗っていけばいい。人間、追い詰められるといつもより機能が高まるらしい。誤字もいつもより少なく、これなら大丈夫そうだと光明が見え始めたその時、画面の右下にメール受信のマークがつく。それを見て俺の手が止まった。妙な緊張感が俺の頭の中を駆けずり回る。
 メールのアイコンをクリックすると、未読の欄に社長からのメールが来ている。件名の最初にRe:と書いているあたり、先程の書類のチェック結果なのは間違いないだろう。俺の頭の中を駆けずり回る緊張感は、そのメールの内容に警告を出していた。
 クリックして開けば案の定と言うか何と言うか、修正の指定がずらりと、それはもう頁が真っ赤になるほどに付けられている。片っ端から目を通すだけでも大変そうな作業に溜息を一つついた。
 見えたはずの光明が一気に雲に覆い隠された気分だ。一気に落ちたテンションを無理矢理引っ張りあげるように俺は両頬を挟むようにして軽く叩く。この時間すら惜しいのだ、気落ちなんてしていられない。
 やっぱり、この世界の仕組みって俺に合ってるんじゃないか?と一生懸命にノートパソコンに向かう俺に、俺が小さくからかうように声をかける。そんな戯言を振り払うように俺はブルンと首を強く振ってからパソコンの画面を見つめた。
 否定する言葉が思い浮かばなかったのは、忙しいせいだと。そう言い聞かせて。


 自分の会社ではなく、あえて相手の会社でプレゼンをするのは社長のこだわりだ。相手方が大手企業でも弱小企業であっても自ら足を向け、その会社の様子を見る事は大切だと社長は言う。
 だから普通の会社とは違って社長自らプレゼンに顔を出しているのだ。と言っても社長と言う役職上、すべてのプレゼンに顔を出す事は不可能だ。だからこそ俺、秘書がまず会社の紹介プレゼンを作り上げて社長と共に宣伝を兼ねて各会社にプレゼンをしに行く。そのプレゼンの内容を基盤として社員の方々、主に営業の方々に各商品やサービス毎のプレゼンを作ってもらうのだ。
 一見すれば随分と手間のかかる事をしている。その分返りも大きいのだが、人数の多い会社でやれば尚更手間がかかり、俺の作ったプレゼン内容を基盤としたところで思想や思考の違いにより食い違いも出、余計なリスクを負う事になるだろう。うちと同じような収益を上げている会社に比べればうちの人数は少ない方だろう。
 とまぁ、その様な今までの会社や社長と言う概念を覆す行動のお陰でうちの会社はここまでこれたのだ。
「無事に終わったな。」
 今までの事を振り返っていると社長が声をかけてきた。会社を出るギリギリの時間まで社長がプレゼンの資料について厳しく指導してくれたお陰なのだが…正直、もう少し労わってもらわないとストレスで胃がやられそうだ。
 あの般若すら裸足で逃げ出すような氷の面を真正面から受けたのだ、それ位の心労があったっておかしくない。
「えぇ、なんとか…」
 無事に終わった安堵と今日のプレゼンがこれで終わりだと言う開放感に包まれながら、プロジェクターとノートパソコンを抱えて会議室を見回す。社長が相手の会社でプレゼンをする意味が、何となくだけれどわかった気がした。
 会議室一つとってもその会社の特徴を良く表している。
「この会社は…これから伸びますね。」
 小さく呟くと社長も何か感じるところがあったらしく、大きく頷いてからこれから一番の得意先になるかもしれないな、と付け加える。そんな会社相手に堂々の戦果を上げた俺達はそこを後にした。
 …そこまでは至って順調だったのだ。そこまでは。
「…お前はいつも私の予想を裏切らない奴だな。悪い意味で、だが。」
 天国から地獄へ、と言ったら言い過ぎだろうが、俺はピンチに立たされていた。
「申し訳有りません。」
 頭を下げても事態は好転しない。わかってはいるが、今の俺には謝る事しかできなかった。自分だってこんな初歩的なミスを犯すなんて思っていなかった。ミスとは慢心から出てくる物なのだと気付くが、それはもう後の祭り。
 まさか、車のキーを中に入れたまま鍵をかけてしまうなんて…。お陰で社長と俺は立ち往生を余儀なくされた。
「午前の訪問先が今の会社で最後だったから良かったものの、これで次に予定が入っていたらどうするつもりだったんだ?」
 社長の棘のある言葉に俺は何も言えずに俯く。とりあえず鍵屋は呼んだからあとは彼らがここに来るのを待つだけなのだが、その間の待ち時間はすべてお説教に費やされるのだろう。
 覚悟を決めた時、社長が小さく溜息をついた。
「先程のプレゼンで成功したしな、今回は許してやる。」
 予想外の許しの言葉に俺はホッと息をつくが、社長は釘を指すのも忘れなかった。
「ただし、次は無いと思え。」
「…はい。」
 ある種、お説教より怖いその一言に俺は顔を強張らせて返事をした。そんな俺を一瞥してから周囲を見回し、社長は住宅地の方を指差す。
「業者が来るまで、あそこの公園のベンチを借りるか。」
 確かにずっと立ちっぱなしは正直辛い。かと言って道に座り込むような事もしたくない。俺はその誘いに乗って公園へと入る社長の後ろを歩く。
 住宅地の近くの為、母親と無邪気に遊ぶ子供達で賑わっている。そんなところにスーツを着た男が二人。なんとも不釣合いだが奥様方は大して気にも留めず井戸端会議にいそしんでいた。
 それにしてもこの公園、どこかで見た事がある。一体いつ来たのかと首をひねって考えながらベンチに座ると、答えはあっさりと出てきた。
 ジャングルジムを見上げるような場所にあるこのベンチは紛れも無く、あの晩アリスと一緒に座ったあのベンチだったのだ。外灯だけに照らし出されていた時とは違い和やかな雰囲気に包まれている公園に俺は溜息を一つつく。
「いつにもまして上の空だな。そんな風だからこんなミスをするんだ。」
 考えにふけっていた俺の横顔を見て社長が溜息をつく。俺は慌てて姿勢を正すが上の空なのはきっと治らないだろう。ここにいるとあの晩の事を思い出してしまうのだから。
 特に何があったという訳でもないし、強いて言うならアリスに一方的に喋られただけの場所だ。しかしそれが俺の中に妙に存在感を際立たせるのはやはりあの日の事を引きずっているからなのだろう。俺の願いを知る為の手段、アリスとしては一番簡単な手順を選んだのだろうがそれは俺にとっては至極苦痛を伴うものだった。
 そこまでして願いを欲しがる意図が俺にはわからない。
「社長…」
 俺の声音がいつもと違うものだと気付いたのか、社長は前面に出していた苛立ちを潜めて俺の言葉を待つ。話を聞く体勢に入った社長に俺は恐縮しながらも口を開いた。
「社長はアリスに願いを聞かれましたか?」
 アリスの言い分だと、どうやらアリスは俺以外の人の願いも手に入れようとしていたらしい。願いが見れないのは俺だけだったという事も言っていたしきっと間違いないだろう。
 社長は俺の言葉に短く肯定してから何やら納得したように数度頷いた。
「またアリスと何かあったのか。」
「そんな事は、」
 無いと言い切る事は出来なかった。そんな俺の様子に社長が目を細める。まるで俺を見極めようとするかのように。その目が余りに透明で俺は何故か居た堪れない様な気持ちになって視線を地面へと向けた。
「それより、どうなんですか?アリスは社長に願いを聞いたのですか?」
 話題を逸らす為に必死になって問いかける。あからさまな話題の転換に気付きながらも社長はあえてそれに気付かぬフリをしてくれた。
「あぁ、この世界を作ってすぐの頃だったな。アリスが私に願いを聞いてきた。」
 そんなに早い時期に?驚きに顔を上げるとそんな俺の反応に社長が僅か驚いた様子で俺を見る。遠くでキャッキャッという子供の笑い声が聞こえた。
「それで、社長は何と答えたんですか?」
「私か?」
 その問い掛けに社長は少し照れたように視線を僅か下げて自分の手の辺りを見た。願いの内容を聞くと言うのはその人の内面を露出しろと言っているようなものなのかもしれない。社長がこんな風に動揺するのはなんだか変な感じがした。
「妻の、事をな。…いつも私に遠慮ばかりして自分からは余り動かぬ奴だったから、思った事を素直に言って欲しいと願った。」
 照れたような笑いの原因はどうやら愛妻が関係していたかららしい。会社では見せない様な幸せそうな笑みに俺はつられて口元を綻ばせる。
 社長の事だからてっきり会社の繁栄とかそんな感じの事を願うのだろうと思っていた。でも逆に社長だからこそ会社の事は願わなかったのかもしれない。きっと会社の事は願いとして叶えてもらうのではなく、自力で叶えるものだと、そう思っているのだろうから。
「アリスは驚いていたな。そんなものでいいのかと目を丸くしていた。」
 その顔を思い出して社長が小さく喉で笑う。アリスもきっとさっきの俺みたいに社長の願いを会社関係だと思っていたのだろう。
「そんなものなどでは無い。それがいいのだと、そう言ってやった。」
 会社では冷静沈着、経済界を震撼させるニューフェイス、ダークホースなどと呼ばれるこの男が。こんな風に妻の事を惚気ている様子なんて誰が想像できるだろうか。
 微笑ましいその光景に微笑みを浮かべるとそれに気付いた社長はすぐにいつもその仏頂面に戻って俺に視線を向ける。
「…お前もアリスに願いを聞かれたのか?」
 社長の問いに俺は僅かに狼狽した。その一瞬を見逃す事無く社長は俺を怪訝そうに見つめてから何かを納得したかのように数度頷いた。
「やはり何かあったか。」
 やれやれと言った様子の社長に俺は顔をしかめる。それではまるで俺が何かをやらかしたようじゃないか。
 俺は悪くなんて無い。悪いのは人の心を勝手に覗き込んだ挙句、彼女を、初代アリスを引き合いに出したアリスの方だ。
 俺にとって初代アリスは特別な存在だった。そんな彼女を、例え幻覚であれ利用したというのが許せないのだ。
「その様子だと、願いを聞かれた時に一悶着あったみたいだな。」
 核心を突く社長の言葉に俺は否定もできず小さく頷いた。それだけで大体の予想がついたらしく、社長はそれきり口を噤む。これ以上この話題を話すべきか否か、それを俺にゆだねたのだ。俺の問題だからこそそれ以上踏み込むような事はしない。それはある種冷たいと形容されるかもしれないが、俺の気持ちを優先してくれているからこその行動なのだ。
 この事を相談したところできっと事態が変化するような事は何も無いだろう。でも、口にすれば少しは何かが変わるかもしれないと、そう思った部分もあった。
「アリスに…」
 口を開いた俺は、視線を下に下げる。自分の影が丁度足元を覆うようになっているのをぼんやりと見つめながら言葉を続けた。
「アリスに、願いを聞かれました。でも彼は願いを叶えるのに必死で私がそれについてどう思ってるかなんて考えていないんです。何かに急かされる様に、そればかりを見て…一体何がしたいのか見当もつきません。」
「なるほどな。アリスはまだお前の願いを叶えられていないのか。」
 その言葉に俺は顔を上げて社長を見た。その言いようだと、まるでアリスが皆の願いを叶える事を知っていたみたいだ。
 先程社長がアリスに願いを聞かれた時に説明されたのだろうか。だとすればどうしてアリスが俺達の願いを叶えようとしているのか、その理由も知っているのかもしれない。
「願いを叶える理由について、アリスは話していましたか?」
 俺の問い掛けに社長は困ったような顔をして口を噤んだ。その様子からして社長はアリスからその理由を聞いているが他の人に言わないように口止めされているか、それか俺に言うべき内容では無いと判断しているかどちらかだろう。
 どちらにしろ、社長が話さないと決めたものを口にさせる事は俺の話術では絶対的に無理だろう事は目に見えていた。俺は小さく溜息をついて再び視線を足元へとやる。
 アリスの理由を知った所でアリスが俺の頭の中を読んだ事実は変わらない。でも、そこまでしなくてはいけなくなってしまった理由があるのならそれを知りたいのだ。もしその理由が余りに下らない内容ならば俺はアリスに対する見解を変えなくてはならない。
「意図して言わないのですか?それとも何かしらの理由で言えないのですか?」
 言葉としてみれば一文字しか変わらないのだが、意味は全く違う。口止めされているのかそれとも社長の判断かで、それは大きく意味を変えるのだ。
 社長が意図して言わないという事はアリスのその狙いが俺にとって何かしらの影響を及ぼす可能性があるという事だ。もしその影響がいい方向のものであれば口を噤むような事はしないだろうから、アリスの狙いは俺にとって悪い影響を及ぼすものだという事になる。
「今のお前には言わない、とだけ言っておこうか。」
 今の、という単語に俺は敏感に反応した。あの時のアリスも俺に今の、という単語を使ったのだ。自分が世界の一部だと思っている今の俺には世界を変える事は無理だと、そう言っていた。世界なんて変える気もないし、変えたいとも思わないのに。
「今の、ですか。」
 果たして今の俺には一体何が足りないのだろうか。アリスにも社長にも言われたその単語が頭に引っかかる。二人の言っている言葉のニュアンスは全く違うが、まるで現在の俺の有り方を否定されているみたいで僅かに腹が立つ。
「お前はアリスを目の敵にしているからな。何を言っても火に油を注ぐ結果になるだけだ。」
 からかうようにそう言ってくる社長に俺は勢い良く顔を上げてから力強く言葉を発した。
「それは彼が!…彼が、この世界を現実に似せるからです。」
「またそれか。」
 聞き飽きたと言わんばかりの言葉に俺は言葉を重ねようとしたがやめておいた。どうせここで何を言っても社長から見れば相変わらずの理論なのだろう。
「それに彼は踏み入って欲しくないところまでズカズカと入ってきますし。もう少し相手の事を考えるべきです。」
 特に人の頭を除くなんてプライバシーの侵害だ。まして、彼女の…初代アリスまで出しにして俺の記憶を引き起こすなんて。
 俺の言葉に社長が小さく笑う。
「アリスは子供過ぎるな。人との適切な距離感をいまいち理解していない。」
 まったくもってその通りなのだ。社長の言葉に俺は力強く頷いた。
「だが、その原因はお前にもある。よく考えてみろ。」
「私に?」
 予想外の答えに俺は目を丸くする。今さっきアリスの非を認めたと言うのに突然にその矛先が俺に向けられ、俺はうろたえる。
 という事は、俺が何かをしたからアリスが皆の願いを叶えると言い出したのか?しかしその何かをした覚えもないし、何かを言ったような記憶も無い。
 ましてアリスに記憶を引きずり出されるまで願いという事すら忘れていた俺が、アリスに願いという物を意識させるような事をできるだろうか?
「自覚が無いのは厄介だな。」
 わからない様子の俺に社長は肩をすくめてから、本当にわからないのかと問いかけた。しかしどんなに頭をめぐらせても、願いに行きつくような言動は俺の記憶には無かった。いつも通り、アリスの役についた人に対するように接し、個人的な関わりは余りしないようにしていたはずだ。
 ただ一つ違う事といえば、俺がこの世界を拒絶している事だろうか。










(c)Kyouzaki