カランカランと俺の考えを遮る様にドアベルが鳴り響く。何気なく視線を遣ると、そこにはチシャ猫の姿があった。淡い紫の服に黒いローブのようなものを羽織り、すべてを知ったような目で皆を一瞥する。
「こんにちは。皆さんおそろいなんですね。」
「よぅ。」
店長が軽く挨拶をすると、チェスマスターがチシャ猫の元へと駆け寄った。
「どうしたんだ?こんな時間にここに来るなんて…。」
まるで飼い主に飛び掛る大型犬のようだ。目を凝らしたら大きく左右に振っている犬の尻尾が見えるかもしれない。
そう思ってしまう程のチェスマスターのはしゃぎ様に私は小さく溜息をつく。
「貴方に今日の分のお小遣いを渡すのを忘れていたので、渡しに来たのですよ。」
そのセリフを聞いて、この場に居る全員が思ったであろう言葉が俺の口から出そうになる。
「おいおい、お前まだヒモ生活か〜?」
しかしその気遣いも無に帰した。調理をしながらこっちの話を聞いていた店長が思い切りその単語を大声で言ったからだ。
「痛いなぁ。俺だって就職活動頑張ってるんだって!」
子供のように地団太を踏んでチェスマスターが俺達を睨む。いや、睨むというよりは一生懸命説得しようと試みているだけか。
「結果が身にならなければ無駄な事だ。」
「ぐっ…」
キツイ言葉を刺したのは社長の一言だった。チェスマスターはチシャ猫に寄りかかり、寂しそうに抱きついた。 そんな二人を見ながら社長は小さく溜息をついて足を組む。
「大丈夫ですよ。私の収入でも十分賄えますし。」
「チシャ〜〜〜。」
完璧に、貢ぐ女とそれに頼る男の図が俺達の前で展開されている。これ以上何を言っても無駄という、そんなムードに包まれたその時だった。
「それに、貴方は来週から働きに出るんですから。」
「え?」
突然の言葉。
チェスマスターの言葉を聞く限りには、就職先は無いという感じだったんだが…俺の気のせいだったのか?だが皆もそう思っているらしく、アリスは目を丸くし、社長は怪訝な顔をして二人を見ている。
調理をしている店長の手が止まって、カウンターから身を乗り出していた。
「来週の終わり頃、ゲーム会社から声をかけられますよ。一人でランキング制覇している噂は十分広がってますからね。」
どうやらチシャ猫お得意の御神託のようだ。これから起こる事を言葉に変える不思議な力…それはまだまだ健在らしい。
「それに私も馬鹿ではありませんから、将来性の無い男と付き合う気はありませんし。」
サラリと言われたその一言にその場の空気が凍りつく。特に凍り付いているのはチェスマスターだ。
「ま、せいぜい捨てられないようにな。」
未だに凍結しているチェスマスターの肩に手を置いて同情を示すと店長が再び料理へと戻っていく。しかしそれは同情と言うよりは止めの一撃に近いものがあった。例えて言うならば、冷凍してカチコチになったチェスマスターをハンマーで粉砕したような、そんな感じだろうか。
「マスター、ケーキセットを下さい。」
そんなチェスマスターの隣へとチシャ猫が座る。ショックの余りチェスマスターはまだ凍りついたままのようだが、彼女は全く気にしない様子で帽子屋へと笑顔を向ける。
「紅茶と珈琲と…どっちにしやがりますか?」
厨房から出ないまま帽子屋が問いかける。その手には大振りなフライパンが握られており、ハンバーグを焼いている最中の様子だ。
「オレンジペコーを、アイスで。…零さないで下さいね。」
こぼすなと言う単語に帽子屋が大げさな身振りで肩を落とす。それと裏腹にその口元が緩んでいるのはチシャ猫と話しているからだろう。
チシャ猫といい帽子屋といい、先見に長けていて博学だ。だからお互いに通じる部分があるのだろう。…ただ、帽子屋の方が若干…否、結構言動がオカシイ所がある。子供のように悪戯を仕掛けてみたり、紅茶やコーヒーを零して遊んだり、まるで本当に子供を見ているような気さえしてくる。
「そう言えば熊用の罠を設置したのは貴方でしたね。」
三代目のアリスの時に私が掛かった熊用の罠は、今ライスを皿に盛っている帽子屋が仕掛けたものだ。しかもその理由というのが『誰かが掛かったら楽しそうだったから』と言う事だったのだから、忌々しい。その傷が治癒するまで何ヶ月掛かったと思っているのだか。
「てめぇまだそんな事覚えてたのか。」
「根に持つタイプなものでして。」
「熊用の罠?一体何があったんだ?」
話に首を突っ込んできたのはアリスだ。興味津々と言った顔つきで俺の顔を見ているが、話せば笑われるのが目に見えていたので俺はあえて無視を決め込んだ。
「許してくれよウサ公〜今日のランチにケーキをサービスしてやるから。」
ケーキという単語に俺は考えた。俺のあの怪我はケーキ一個分の価値なのか?せめて一日一ホールを一年三百六十五日支給してくれない事には俺の腹の虫が収まりそうにない。
「だから、何があったんだよ!?」
自分だけ話から外れている事に腹を立てたアリスが痺れを切らしたように声を荒げる。それを見た瞬間、チシャ猫が口を開いた。
「実はですね、」
「チシャ猫さん!!」
アリスの事だから絶対にこの話を聞いた途端に腹を抱えて笑うに違いない。俺が焦って彼女の名前を呼ぶが、チシャ猫はクス…と楽しそうな笑みを浮かべて再び口を開こうとする。
それを阻止するべく俺は席から立ち上がろうとするが、その腕を誰かが押さえていて引き止められてしまった。
とっさに振り返るとアリスが楽しそうに笑いを浮かべながら俺の腕を掴んでいる。それを振り払って進もうとするが、時既に遅し。
「昔、帽子屋さんが悪戯で置いておいた熊用の罠にかかったんですよね?」
どんな悪戯だよ。むしろ傷害事件だ、傷害事件。そんなツッコミを心の中で入れながら俺は席に腰を下ろした。どうせ笑われるのだ。今更何をしても無駄だろう。
しかし、予想していた彼の笑い声は聞こえない。どうしたのかと思ってアリスを見やると、彼は哀れむような目で俺を見ていた。
「お前、大変なんだな。」
…これはこれで腹が立つな。
「ほらほら、しんみりしてんじゃねぇ。俺の作った飯がまずくなるだろうが。」
いつの間にか帽子屋がトレイに皿を器用に乗せて料理を持ってきていた。料理から上る湯気まで美味しそうに見えるのだから、帽子屋の料理の腕は素晴らしい。
そう心の中で賞賛しているとテーブルの上に料理が並べられていく。さっそく目の前に置かれたホットサンドに手を伸ばす。あふれんばかりに挟まれた具は正統派のBLTで、思わず顔がほころぶ。
「嬉しそうだな〜。あ、ウサギはレタスが好きだもんな。」
浮かれた気分がチェスマスターの一言で一気に急降下した。悪気がなかったのか、一気にテンションの落ちた俺を見て慌て始めている。
「フォローしようとするな。お前は墓穴を掘るのが得意だからな。」
淡々と言葉を発したのは社長だった。その言葉に今度はチェスマスターがへこんでしまう。…いい気味だと思ったのは秘密にしておこう。
「貴方にももう少しだけ思慮深さがあればいいんですけどね。」
最愛のチシャ猫にそう言われるとチェスマスターは縋るような目でチシャ猫の腕にしがみついた。その頭にシュンと垂れ下がった犬の耳が見える気がする。きっと尻尾も力なく垂れ下がっている事だろう。
「天下のチェスマスターがこんな単純な奴でいいのか…?」
ポツリと呟かれたアリスの一言は、チシャ猫に捨てられないように必死になっているチェスマスターの耳には届かないようだ。
「あいつは本能で動いているからな。」
社長の言葉にカウンターの中の厨房へ入っていく帽子屋が大きく頷いた。
「でもチェスってのは頭良くないとできないんだろ?まして勝ち続けるなんてさ。」
大きめに切り取られたハンバーグステーキを頬張りながらアリスが言葉を紡ぐ。所々くぐもってはいたが、何とか聞き取る事ができた。
「チェスマスターの場合は本能で一番いい手を選んでるんです。まさに天賦の才という奴ですよ。」
つまりはすべて勘で切り抜けてるって事か、とアリスが納得していたが、あながち間違いでもないので否定しないまま流しておいた。
「先々代のアリスが作った世界の時は、あいつも活躍していたんだがな…」
「先々代?その時はどんな世界だったんだ?」
この年代の青少年の好奇心には底がないらしい。先程までライスを掻き込んでいた手を止めて社長へと好奇の眼差しを向けている。
「あの時は近未来の世界だったな。惑星間で互いの領地争いがあり、その際に奴を軍師として使っていた。」
「ふーん。で、やっぱり勝ったのか?」
アリスの問いかけに社長は上機嫌で答える。その表情は自分の子供を褒められた親のような表情だった。
「当然だ。あいつの実力は私も良く知っているからな。」
社長はチェスマスターに対し冷たい言動を取るが、それもチェスマスターを思うが故の忠告だ。逆を返せば、それだけチェスマスターの事を気にかけているという事になる。
「それが、今ではあんな寄生虫のような生活…」
社長の視線の先にはチシャ猫と楽しそうに話しているチェスマスターの姿がある。
「別に大丈夫だろ。来週には仕事も決まるみたいだしな。」
「だが…」
尚も言いよどむ社長の言葉をとめるようにアリスはハンバーグの刺さったフォークを社長の目の前に突きつける。
「あいつに頑張る気力があるうちは平気だろ。それが無くなって駄目な方向に突っ走り始めたら、今までみたいに叱り付けてやればいい。…歯がゆくても、今は見守ってやれよ。」
アリスの言葉に社長が頷く。その表情は幾分晴れ晴れしているようにも見えた。
…さて、目の前で展開されている人生相談室のようなものは何なんだろうか?黙々とサンドイッチを食べる自分だけ孤立しているように感じるのは気のせいか?しかしこの中に入るのも勇気が必要だろう。
そんな事を考えた結果、俺は孤立を続ける事にした。
「あぁそうだ、シロウサギさん。」
あたかも思い出したかのように俺を呼んだのはチシャ猫だ。言葉からして何か伝えようとした事を思い出したかのように聞こえるが、実際はそうではない。これはチシャ猫がご神託を受けた時の言葉なのだから。
「何でしょうか?」
笑みが引きつりそうになるのをこらえながら俺は何とか返事をする。一体何を言われるのか…。
気がつけばチシャ猫と俺とに皆の視線が集まっていた。突然のご神託の内容が気になるのだろう。暫くの沈黙と皆の視線に晒される奇妙な緊張感に俺は固唾を呑む。そしてチシャ猫が口を開いた。
「明日のラッキーアイテムは缶コーヒーです。」
呆気にとられた。それ以外に言葉が浮かばない。何故ラッキーアイテムなのか。そして何故それがわざわざご神託で降りてくるのか。ラッキーアイテムと言われるとその信憑性が低く感じられてしまうのは俺だけなのか。
予想外の言葉に頭が混乱している。チシャ猫のご神託にこんなものがあるなんて知らなかったのは俺だけではないらしく、皆一様にポカンとした顔をしている。
そんな俺達を見てチシャ猫は小さく微笑みを浮かべ、帽子屋も悪戯が成功した時のような笑みを浮かべて俺達を見ていた。
狐につままれているような、そんな感覚さえしてくる二人の笑みから目をそらすと俺は残りのサンドイッチを平らげた。社長とアリスは先程まで話していたせいか半分以上がまだ残っている。
「食後の紅茶をお願いします。」
俺が手を上げるとカウンターの中で帽子屋が了解というように手を上げる。もう片方の手にはケーキの乗った皿がある。今日のケーキはどうやら木苺のタルトらしい。
帽子屋は慣れた手つきでケーキの皿と紅茶の入ったティーカップとソーサーをチシャ猫の前に置いて早速俺の紅茶の準備を始める。
ゆったりとした沈黙は苦痛ではなく、逆に落ち着きを与えてくれる。時折聞こえる皿とフォークがぶつかる音は店内でわずかに流れているBGMと溶け込んでいく。
のんびりとしたその空間に浸っていると、ポツリとアリスが口を開いた。
「俺っていつまでここにいれるんだろうな…」
口ぶりからすると帰りたくないのだろう。アリスの為に作られた世界だから、帰りたくないと言ってもらえるのはこの不思議の世界の住民としては誇らしい事だ。
「いつまでもいりゃいいじゃん。こんな楽しい世界なんだしさ。」
チェスマスターの声に皆が頷くと、アリスはそうだよな、と小さく呟いてからニッと笑った。
「これからもよろしく頼むぜ?」
アリスが願うならこの世界はずっと続いていく。アリスが望むならずっとこの世界に居る事だって可能だ。
もしこれが現実だったらそれを咎める者も居るだろう。現実という世界を捨てる事になるのだからその現実で生きている人…特にアリスの家族や友人、知人からの非難が集中しそうだ。
もしかしたら誘拐犯扱いされるかもしれないな。などと考えていると目の前にティーカップが置かれた。アールグレイ独特の澄んだ香りに包まれてふっと顔が緩む。
「空いてる皿、お下げしてやるよ。」
器用に俺の皿と、いつの間に食べ終わっていたのか社長とアリスの皿を重ねて片手で持ち上げた。普通だったら数回に分けて運ぶであろう皿達がアンバランスなように積み重ねられているにも拘らず、一向に崩れる様子を見せない。
もはや大道芸の域にまで達しているような気さえする帽子屋のパフォーマンスに気をとられていると、目の前においてあったティーカップがなくなっていた。
「!?」
それに気付いて慌てて首を巡らすと、アリスがさも当たり前のように俺の紅茶を飲んでいた。
「お前!」
咄嗟に口調が荒くなるが知った事ではない。人の物を勝手に取る奴に敬語を使えと言われても無理だ。
「あぁ、悪い。一口もらったぜ。」
お前の一口の基準は三回以上嚥下する事なのか?というより、悪いと思うなら取るな。そして飲むな。
「……」
言いたい言葉が一気に出てきて結局何も言えないまま黙ってしまう。そんな俺の目の前にティーカップが戻ってきたが、最初の紅茶の量から比べると明らかに半分くらいが飲まれてしまっている。
「たかが紅茶でそこまで怒らなくてもいいだろう、大人気ない。」
たしなめるような社長の言葉で我に返ると同時に、俺は紅茶の事で怒っている訳じゃないと頭の中で反論した。
「…すみませんでした。」
これが帽子屋だったりチェスマスターだったりした場合、俺はそこまで怒らないのだろう。
俺が怒っている原因は、それがアリスだったからだ。あいつのやる事なす事すべてが鼻にかかって仕方がない。坊主憎けりゃ袈裟までも…といったところか。
アリスからしたら迷惑極まりないんだろうが、どうしてもこの嫌悪感というかそういったモヤモヤしたものが俺の中から抜けないのだ。
「ほらほら、紅茶のおかわり入れてやるから。」
帽子屋がティーポットを持ってきて俺のティーカップへと紅茶を注ぐ。赤褐色の澄んだ水面に映る俺の顔が見たくなくて、俺はすぐにカップへと口をつけた。
「シロウサギさんだけおかわり有りなんですか?」
茶化すように言ったのはチシャ猫だ。その手にはティーカップがあり、無言で自分にも紅茶のおかわりを催促している。
「ずるいなぁ…俺も紅茶!」
それに便乗したのはチェスマスターだ。しかしあいつはカップも持ってないのに何を使って紅茶をもらう気なんだ?手か?
それを見ていたアリスも元気に手を上げ、社長もちゃっかりとこの機会を逃すまいと手を上げていた。
「私達も頂こうか。この際一人増えても同じだろう?」
全員から紅茶をねだられ、帽子屋は渋い顔をしている。ここは店で、すべての飲食にお金が掛かる仕組みになっている。その中でこれだけの紅茶を出す出費をカバーできる分の何かを探しているのだろう。
暫く悩んだ結果、帽子屋はニッと口の端を吊り上げて笑った。
「よぅし、紅茶一杯タダで差し上げてやる!!」
よっ、太っ腹!などと言って騒ぎ立てているのは言わずと知れたチェスマスターだ。帽子屋は新しくアリスとチェスマスター、社長の分のティーカップを出してポットの中から紅茶を注いでいく。
それを見ていたその時の俺達は、自分達の犯したミスに気付かなかった。
そう、それは…
「うわ!零してる零してる!」
途端にあがったチェスマスターの制止の声を聞く事無く、帽子屋は紅茶をティーカップから溢れても尚注いでいる。
「零すなと言うのを忘れていたな…」
我関せずと言った様子で社長が呟く。俺とチェスマスターとアリスは、紅茶で水遊びを始めた帽子屋を止めるべく一時的な同盟を結んだ。
「シロ、右から回り込め!チェス、後ろからだ!」
捕まえようとすると温くなってしまった紅茶を思い切り顔面にかけられた。咄嗟に動きを止めるとその横を帽子屋が笑いながら通り過ぎて行く。
「そっちだ!」
司令塔兼捕獲隊長のアリスが捕まえようとするが、あえなく俺と同じように返り討ちにあってしまった。
そんな俺達の攻防戦をチシャ猫がいつの間にか持っていた折りたたみ式の雨傘を差して見ている。
「傘持って来ておいて良かった。」
飛び散る紅茶のしぶきを器用に雨傘でガードし、片手にはティーカップ。同じく高みの見物としゃれ込んでいる社長はというと、いつもの経済新聞を広げていた。それがちょうど紅茶のしぶきから社長を守っているらしい。
既に紅茶塗れになった俺達はこれ以上の被害を増やさぬように全力をかけて帽子屋の捕獲に努めたのだった。


(c)Kyouzaki