3.
今から三日前の事、酔っ払っていた俺はアリスに家まで送ってもらった。そのお礼として昼食を奢るようにと一方的な要求の電話がアリスからきたのが昨日の夜、会社帰りの時だった。
…どうしてアリスは俺の携帯の番号とアドレスを知ってるんだ?
そんな疑問もあったが、とりあえず俺がアリスに迷惑をかけた事に変わりはない。いつまでもその借りを引きずるのも嫌だったので俺は了承した訳だ。
そして今日、俺はアリスと一緒に三駅先にあるショッピングモールに来ていた。アリスの目当てはどうやらその中にある有名洋菓子店のケーキらしい。絶品と名高きそのケーキは前々から俺もチェックしていたのだが、如何せんその店のファンシーすぎる内装に気後れしてしまい今まで行けずにいたのだ。アリスが俺を誘ったのもそのファンシーな空気に一人きりが辛いからだろう。
チシャ猫のご信託のラッキーアイテムの缶コーヒーは、きっとこの為だったのだろうと深く納得した。
メールで送られてきた待ち合わせの場所であるショッピングモール南口に行くと、そこにはアリスがいた。…いや、その場所が待ち合わせの場所だからいるのは当たり前なのだが…問題は、どうしてその隣に社長がいるのかという事だ。
混乱しているとアリスがふと顔を上げた。途端、目が合う。
「お、シロ。今日は遅刻しないんだな。」
皮肉交じりにそういわれてむっとするも、実際にいつも遅刻ばかりしているので反論する事もできない。社長の目がかなり冷たい物になっているのに気付いた俺は社長から目を逸らした。
「こういう時だけは遅刻しないとは…都合のいい体内時計を持っているようだな。」
社長の皮肉はアリスのそれよりも更に冷たく、鋭い。目を逸らしていたからよかったものの、あの冷笑を直視した日には背筋の凍る思いをするだろう。
「ところで…どうして社長がここにいるんですか?」
話を変えると社長はあぁ、と小さく声を出して溜息をついた。その話しになった途端に一気に気迫が薄くなっていくのがわかる。一体どうしたのかと社長をちらりと見るとその顔は疲れきっていた。
いつもどんな仕事であろうと涼しい顔をしてやっている社長がこんなに疲れているなんて余程の事があったのだろう。そう思いながら理由を言うように目線で促すと社長は小さく口を開いた。
「妻の買い物に付き合っていたのだが…女というのはどうしてこんなに買い物に時間をかけるんだ?」
元々女だった貴方がいうべき言葉では無いだろうというツッコミが口から出そうになるのを抑えながら、疲れきった表情を浮かべる社長に同情する。
社長がまだハートの女王だった時、その下に仕える俺は彼女の買い物に付き合わされて酷い目にあった。二時間、三時間のウインドウショッピングに始まり、買うものを選ぶ時にこれでもかと言う程悩み、挙句俺にどれが良いかを訊ね、自分の望んだ答えでは無いと怒鳴り散らす。それが己の身に降りかかっているのだ。さぞかし堪えるだろう。
…ざまぁみろと思ったのは内緒だ。
「ま、頑張れよ。家族サービスは大事だぞ?」
茶化しているのか本当に応援しているのか、アリスがぽんぽんと憔悴している社長の肩を叩く。社長は小さく頷いて再び溜息をついた。
「わかっている。だからこうやって買い物についてきたのだからな。」
「一緒に居なければ意味が無いのではないかと思いますが…」
荷物持ちやアドバイスだけではなく、女性が欲しているのは話しをする時間なのだと俺は思っている。ハートの女王に仕えている時はしょっちゅうハートの王様に対する愚痴や世間話に付き合わされたものだ。
「そうですよ。女性というのは好きな人と一緒に居る時間が一番楽しいんですから。」
俺の言葉に肯定をするのは、と思ってふと二人を見る。二人の声はこんなに可愛らしい物ではなかった筈だ。そう思って声のした方へ顔を向けると、そこにはハートの王様の姿があった。若草色のローウエストのワンピースを着こなすその姿はあどけない少女そのものだ。
ハートの女王が男に変わった事でハートの王様は女性へと変わっており、今は社長夫人として専業主婦業に専念している。しかし立場や性別が変わってもその柔和な印象や見るだけで人を和ませる力は変わらずに健在のようだ。
「お久しぶりです。ご機嫌麗しゅう…」
「貴方は相変わらず礼儀正しいですね。いい事ですよ。」
慈悲深い笑みを向けられ、勿体無いと再び頭を下げる。その視界に入った高級な革靴がゆっくりと後ずさっているのに気付いた俺は頭を上げた。
夫人の後ろの方に立っている社長がゆっくりと後ろへと下がって離れようとしている。夫人は全くそれに気付いている様子は無く、このまま社長の逃亡が成功するかと思われた、その時だった。
「何処に行くんです?」
満面の笑みのまま、婦人がゆっくりと振り向いて逃げようとしている社長を見据える。この時俺は肌にピリピリと感じる、社長の威圧感より更に強い何かを感じて身を竦ませていた。
「何処にも行かないが、どうかしたのか?」
「私、まだ見たいお店があるんです。一緒に来てくれますか?」
暫く無言のまま続けられる笑顔の押収だったが、勝敗は歴然であった。夫人が小さく足をコツコツと鳴らして自分が怒っているのだと体で表すと、社長の顔色が見る見る変わってまるで見えない何かに引きずられるように夫人の隣へと歩み寄る。
そのまま夫人が社長の腕に自分の腕を絡めて嬉しそうに笑みを浮かべた。疲れ果てながらも夫人に逆らえない社長に心の中で合掌をしていると夫人はペコリと頭を下げて社長を引きずっていく。
「あいつらって、この世界になる前もあんな感じなのか?」
「いえ、いつも社長が主導権を握っていたのですが…。女は強い、という事ですかね。」
性別が一転した途端に変わった主導権。あれだけ我侭で横暴な女王の影が全く見えないなんて、あの頃では考えられない事だ。
昔を思い出しながら徐々に小さくなる二人の姿を見つめる。引きずり回されて疲れているようだが社長も満更でもないようで、時折夫人に笑いかける様子が見て取れた。主導権がどちらにあっても夫婦仲がいいのに変わりは無いようだ。
「確かに、女は強いよな。チシャ猫とか凄いクールだし。」
なるほど。チシャ猫は本当にクールと言う単語の似合う人だ。自分に害なすもの、自分が必要としないものに対しての態度は冷徹で、チェスマスターと付き合うまでは難解な謎を出して物語の筋をこじらせる攻撃的な一面も持ち合わせていた。
その名残は今も残っているが、それもまた彼女らしさという物だろう。
「そんな強い女の集まる場所に行くんだ、気合入れろよ?」
冗談交じりにアリスが笑うが、俺は本気で頷いた。甘いものが好きな為甘味を扱う店に良く立ち寄る俺だが、彼女達の勢いはまさに怒涛という表現が相応しい。ケーキバイキングなどはまさに戦争だ。これでバーゲンセールなどという物になると更にその攻撃力が増すのだから…女性とは凄いとしか言いようが無い。
だからこそ気合を入れて向かわなくては。
「でもその前に…こんなに広いんじゃ店を探すのも一苦労だな。」
ショッピングモールの案内パンフレットを取り出すとアリスは小さく溜息をついた。それを覗き込むと、確かにこんな広い敷地内に沢山の店が集約されているだけあってその店の名前をパンフレットから探し出すだけで時間が掛かりそうだ。
だがしかし、その店を目的としているならあらかじめチェックしておくべきだろう。全く仕方の無い奴だと内心溜息をついたつもりだったが表に出ていたらしく、アリスが不機嫌そうに俺を見てくる。その視線に晒されて少しだけ気まずくなるが先程の夫人の威圧感に比べたら可愛いものだ。
俺は自分の鞄から手帳を取り出すとしおりを挟んでおいたページを開いた。そこにはその店の店名と場所、電話番号が自分の癖のある右上がりな字でメモしてある。
前々から気になっていたからメモだけしておいたのが、こんな時に役に立つとは…。俺は昔の自分に感謝しながらそこに書かれていた場所をパンフレットで探す。
「あ、ありました。三階のここですね。」
指先で確認するとアリスはふーんと小さく声を出してから、まるで子供にやるように俺の頭をぐしゃぐしゃと力強く撫でた。
「お前も役に立つ時ってあるんだな。見直したぜ。」
ニヤニヤと笑うその顔を思い切り張り倒してやろうかと一瞬だけ本気で考えたがやめておいた。ここでアリスをKOしたら俺は一人でそこに行かなきゃいけなくなってしまう。それだけは勘弁して欲しいので、無言でその手を払いのけると乱れてしまった髪を手櫛で軽く整え、不満を表すように無言で歩き出す。
突然歩き出した俺にアリスが戸惑って少し遅れてから追いかけてきた。その足音がパタパタと俺を追いかけ、隣へと来る。
怒っているのかと訊ねられたので首を横に振るが、それが嘘だと気付いているアリスは俺の言葉にどうだか、と付け加えて隣を歩く。どうせわかっているなら聞かなければいいのにと思ったが、それが人付き合いという物なのだろう。
「ところでさ、一つ質問なんだけど。何で敬語使ってるんだ?」
上に向かうエスカレーターに乗った途端にそう言われてアリスを見ると、自分の隣にいる。その後ろでは先に進みたがっている人がアリスを軽く睨んでいた。
それに気付いた俺は慌ててアリスをこちら側の空いている段へ引き寄せた。突然肩を掴んで引っ張ったせいかアリスの体の重心が崩れてエスカレーターの手すりにもたれかかるような状態になってしまう。その弾みで俺にぶつかったがよそ様にぶつからなかっただけ良しとしよう。
「別に休日なんだし仕事でもないんだから別に敬語使わなくたっていいだろ?」
我が道を走るアリスは俺の返答も待たずに質問してきた。誰もアリスの質問に答えてやるなんて一言も言っていないというのに。
「この不思議の国を作る一部として与えられた役になりきるのが私の存在意義ですから。」
「そんなん関係ないだろ?この間、敬語忘れちまったんだし。」
それを言われると俺の気分は一気にガタ落ちになる。咄嗟とはいえ役になりきるのを忘れていたのは、俺としてはあってはいけない事で…。
また悪い方向への堂々巡りになるその寸前でエスカレーターが終わり、他の事に意識を集中していた俺はバランスを崩した。それを見てアリスが咄嗟に手を引く。
そのまま腕を引かれてさらに一階上を目指すエスカレーターへ乗った。バランスが崩れたままだったのでその勢いのまま手すりを超えそうになり、慌てて手すりに掴まる。そんな俺を見てアリスがさっきの仕返し、と他の人に聞こえない程の小さな声で言ってくるものだから頭にきてその膝を軽く蹴る。
「っ!」
痛そうに眉を顰めてこっちを見てくるが、知らぬふりをしてやった。
そんな子供じみたやり取りを繰り返しているとエスカレーターが終わる。今度は後ろに立っていた俺に気をとられていたアリスが転びそうになっていたが、放って置いた。
そのまま転んでしまえば面白いのに、アリスは多少足取りがおかしくなっただけですぐ普通に戻ってしまうものだから俺は残念だといわんばかりに小さく息を吐く。それに気付いたアリスは俺を見て不機嫌そうな表情を作るとじっと俺の顔を見てきた。
「お前…性格悪いよな。」
「貴方には負けますよ。」
微笑を浮かべて言ってやるとアリスは一瞬あっけにとられた様な表情を浮かべ、そして怪訝そうな顔つきで人の顔をじろじろと見てくる。
「何だか、性格変わってないか?」
別に変わってなど居ない。強いて言うならばいつも心に思っている事を口に出しただけだ。まぁ普段の俺を知らないアリスからすれば、一見性格が変わったようにも見えるのだろう。
「元からですよ。さ、行きましょう。」
尚も不満そうにしているその腕を引っ張って歩いていく。せっかく美味しいと有名なスイーツを買うのだから、口喧嘩なんて無粋な事をやっている暇はないのだ。
アリスも俺と同意見だったのか不平を言う事もなく素直について来る。
エスカレーターから数分歩いたところにその店はあった。なるほど外観からして既に店に入る気力を失くすデザインで構成されている。別に表現するならば可愛い、ファンシーと言ったところか。俺達の後ろに居たカップルの片割れが、他の店にしないかと必死に彼女に懇願している。
「本当に入るのか?」
念の為に聞いてきたアリスの確認の言葉。というかそもそもこの店に誘ったのはお前の方だろうが。どうしてお前が俺に指示を仰いでくるんだ?
「私も正直逃げたいですが、この店はあの帽子屋オススメのお店なので…頑張ります。」
「わかった、俺も頑張ろう。」
消極的になっていたアリスが俄然やる気を出したのも無理はない。帽子屋の料理の腕が超一級である事はもはや周知の事実であるが、それ故に帽子屋が行う他の店の料理のチェックという物は厳しい。かの有名な三ツ星レストランすら、帽子屋にかかれば批評のオンパレードになる。
そんな帽子屋に美味いと言わせたこのスイーツ…我慢してでも並ぶ価値は十二分にあるだろう。
店の外まで伸びそうな人の列に並ぶが、案外早く列が進んでいく。一体どうしてかと思って店から出てくる人を見ると、その人達の手には店名の入った紙袋がある。店に入った客の殆どが持ち帰りを選択しているらしい。
そう言えばスイーツの持ち帰りがこの店の売りだったはずだ。そうする事で一個あたりの利益分を下げても客の回転数で減らした分の利益分をカバーできる。中々にいい方法だ。
待てよ。これは自分の会社にも使えるんじゃないだろうか。そう思った時だった。
「こら。」
ポスンと頭を軽く叩かれた。一体何だと思って見ると、アリスが俺の眉間を指差してきた。
「仕事の事考えてたんだろ。眉間に皺できてたぞ。」
それと、と付け足すようにアリスが自分の唇を指差す。俺は慌てて無意識に口元にいっていた手を下に下ろした。
「もしかして…噛んでましたか?」
無意識なのでまったく記憶がないのだが…俺には爪を噛む癖があるらしい。噛み千切るのではなくずっと噛んでいるだけなのだが、そのような癖は直すようにと社長に再三再四注意された覚えがある。
「若干、な。結構やってるけど、癖か?」
「えぇ、まぁ…」
意識下にないから果たして前々からやっているのかなんてわからないが、注意された回数を数えてみると中々の数になったのできっとそうなのだろう。
思えば、人型の時は大抵この癖を注意されているような気がする。ということはこの癖は結構根強いものなのかもしれない。
「何だかお前らしいよな。神経質って感じ。」
「そうですか?」
本当に神経質な人だったら爪を噛むような癖すらなさそうな気がするのだが、まぁあくまでもイメージなのだろう。
むしろ俺としては、自分は神経質よりずぼらな方だと思っている。部屋だって最低でも三日に一回は掃除をしたいのにズルズル伸ばしてしまって、結局は週に一回掃除をするのが精一杯な状態になっている。
その話をしたところ、アリスは信じられないという風に俺をまじまじと見ていた。まるで知らない国の人を見ているようなそんな目つきで見られて怪訝な顔つきになってしまう。
「有り得ないって。何でそんなに掃除すんだよ。普通、三ヶ月に一回くらいだろ?」
むしろその方が信じられないし有り得ない。何故三ヶ月も放置するんだ?そんなに放置していたらダニが湧くだろう。埃も積もるし、その言い様だと部屋自体がきちんと片付いているかどうかもあやふやだ。
「理解しがたいですね…」
そんな部屋で生活するなんてありえない。しかしそれはアリスも同じ事らしく、未だ奇異の目で俺を見ている。その時、アリスの向こう側に見覚えのある人が歩いているのに気付いた。
向こうもこちらに気付いたらしく足早に駆け寄るとアリスの肩を軽く叩いた。
「よぉ、暇人共。もしかしてお前達もここの甘味を食いに来たのか?」
「まぁな。あんたもか?」
気さくを通り越して不躾な帽子屋の言葉にアリスは慣れた様子でサラリと流し、逆に問いかけた。その質問に帽子屋はハッ、と鼻で笑ってから胸を張る。
「当たり前だろ。ここは俺様のお気に入りだからな。」
言うや否や帽子屋は俺達の腕を掴んで列から出させてしまう。慌てて後ろを振り向くが時既に遅く、俺達のいた場所は後ろの人に詰められてしまった。折角もうちょっとで店に入れたのにと無言で咎めるも帽子屋は軽く肩をすくめるだけですまなそうな素振りすら見せない。
ただそのままグイグイと俺達の腕を引っ張って店の中へと我が物顔で入っていく。
「あ、あの!?」
さすがにそれに驚いて声をかけるが、帽子屋はそんな俺の反応を見て楽しそうに笑うのみ。突然前に割り込むようにして店内に入る俺達に向けられた後ろに並んでいる方々の視線が痛い。普段我が道を行くアリスもこの帽子屋の行動には驚いたらしく目を丸くしている。その中に見える焦りと戸惑い…まだ、アリスの方が帽子屋よりも常識人だったらしい。
「よぉ。」
帽子屋が店に入った途端、店の雰囲気が変わった。店だけではなく帽子屋自身の空気もだ。ピンと張り詰めた空気に俺達だけではなく列に並んでいた人達もつられて身構えてしまっている。心なしか店員達の手つきがギクシャクとして見えるのは気のせいでは無いだろう。
そんな反応に小さく喉の奥で笑いながら帽子屋がゆっくりと店内へと進む。それに気付いた店の中でも偉そうな人が出てきて、帽子屋に頭を下げる。
「依頼されてた試食に来たぜ。こいつらは俺の連れだ。」
全く話が見えない俺達は、まな板の上の鯉のように抵抗する気力すらなくただただ呆然としたまま店の中へと案内された。十二畳程のイートイン用にしては僅かに少ない席の一つに案内されて座ると、店の人が去っていく。それを見送りながら俺は口を開いた。
「あの…何がどうなっているのですか?」
「ここのパティシエ、俺の弟子なんだよ。で、俺はそいつの新作のチェックに時々こうやって呼び出される訳。一人で食うより皆で食った方がいいから道連れにさせてもらったぜ。」
帽子屋に弟子などいただろうか?疑問に思っているとアリスもそう思っていたらしく首をひねりながら帽子屋に問いかける。
「お前、弟子なんて居たのか?」
その問い掛けに帽子屋はあぁと何か納得したように声を出して頭を掻いた。説明する順番を組み立てているのか暫く小さな声を上げながら考え込んで、漸く頭の中で説明が纏まったらしく口を開いた。


(c)Kyouzaki