「ぁ」
小さくアリスが声を上げた。それに思考を遮られてふと視線をアリスに向けると、しまったという顔で自分の口元に手をやっていた。
「今、ちょっとだけお前の願いの輪郭が見えたんだけどなぁ。声出したら消えちまった。」
「願い…?」
これが願い?全く願い事という物とはかけ離れていて、むしろ懐かしい思い出話に過ぎない気がするが。…それとも願いに繋がる何かなのか?
「言葉自体を思い出せば早いんだけどな。」
「それは…」
記憶の網を必死に辿る俺にアリスは小さくため息をついた。
「毎日言ってるのにどうして忘れるんだよ。」
半ば呆れの入った声でそう言われて俺はむっとする。俺だって好きで忘れた訳じゃない。それに思い出そうとしても、まるで見えない何かに遮られているかのようにその部分の記憶だけがぽっかりと抜けてしまっている。
「思い出せないんです。あの言葉を…」
生活の一部になるほど毎日の様に呟いていたあの言葉をどうして忘れてしまうのか。俺だってその違和感にイライラしている。
でも、確かにあの時俺はその言葉を口にしたんだ。睡魔に侵食される中、必死に口を動かして。
そう思った時、俺はある事を思い出した。
「あの時、貴方が私を家まで送ってくれた時、貴方も一緒になってそれを口にしていませんでしたか?」
夢現だった為にそこまで詳しくは覚えていないが、確かあの時、あの言葉をアリスも一緒になって口にしていたのだ。まるで最初からその言葉を知っていたかのようにその唇が言葉を象るのを見ていた気がする。
そう思って問い掛けるとアリスは眉間に皺を寄せながら首を横に振った。
「あの時はお前の意識を読んでたせいで、お前の意識に流されるように喋っただけだ。内容は覚えてない。」
アリスの記憶にも俺の記憶にも存在しないあの言葉。それを意識の海の底からサルベージするのは最早不可能のように感じた。
「では、諦めましょう。」
あっけらかんと言い放つとアリスは驚いたように俺の顔を見た。
「諦めるって…」
「思い出そうとしても無理なら、諦めるしかないでしょう?」
叶えて欲しいと思うほど大切な願いなら忘れるはずが無い。と言う事は、俺の願いはそこまで大切な物でもなかったという事だ。
わざわざアリスの時間を削ってまで考えるべきものなんかじゃない。
「お、終わったのか、二人とも。」
真剣な空気を壊すかのように声をかけてきたのはチェスマスターだ。片手には炭酸飲料の入ったペットボトルを持ってとても上機嫌そうにしている。
その理由は火を見るよりも明らかだ。
満面の笑みを浮かべるチェスマスターの隣には、いつも通り落ち着いた雰囲気を漂わせているチシャ猫の姿がある。どうやら俺達がゲームをしている間に見つけたらしい。
「ちゃんと会えた様で何よりです。」
「まーな。下手に探し回るよりも、ゲーセンにいた方がチシャに見つかりやすいと思ったんだよ。」
なるほど、無闇やたらに探し回るより余程堅実的だ。
「あら…」
感心していると、チシャ猫が突然声を上げた。そしてじっとアリスの顔を覗き込む。
「…焦っても事態を困惑させるだけ。本当に欲しいものがあるなら、焦らず、ゆっくり動いた方がいいですよ。」
にこりと微笑むその笑顔。まるで何もかも見透かしてるんじゃなかろうかと思ってしまう。
抽象的なその言葉が何を意味しているのか、俺とアリスは理解していた。
多分、いや、絶対に。
それは俺の願いの事だ。
「それでは、私達はこれで…」
口元に小さな笑みを浮かべたままチシャ猫が去っていく。それを慌てて追いかけるチェスマスターの背を見送ってから俺はアリスへと向き直った。
「あいつ、俺達の頭ん中読んでんじゃねぇの?」
「そんな不躾な事をするのは貴方くらいですよ。」
チシャはあくまでもご神託を口にしているだけで、俺達の間に何があったかとか、その辺は理解していない。そして、例え感づいたとしてもそれを口にするような事もしない。
不躾という表現にアリスは不満そうな顔をして俺を見てきた。
「つまり、俺が不躾だって言いたいのか?」
なるほど逆に考えればそうなるだろう。というより、こいつが不躾じゃなかった事なんてあっただろうか?
「自分が不躾だという自覚はあるんですね。」
てっきり自覚していないと思っていたのにと、感心したように呟けば、アリスが凶悪な面をしてこちらを睨んでくる。
「俺のどこが不躾なんだよ。」
心外だと言わんばかりにそう言ってくるアリス。てっきり自覚しているのかと思っていたので、その問いかけに俺は少しだけ反応が遅れた。
「…人の紅茶を勝手に飲んで、人の頭の中を勝手に覗く様な人を不躾と言わないんで何と言うんですか?」
逆に言い返せば沈黙。ぐうの音もでないアリスをいい気味だと目の端で捉えながら俺は時計を確認する。行列に並んでいたのもあって時間は結構経過していた。
そろそろ帰るかと思っているとアリスが俺の腕を覗き込んでくる。
「何だよ、もう帰るのか?」
「えぇ。目的は済ませましたし、もうここにいる必要性はないでしょう。」
アリスのウィンドウショッピングに付き合わされ、ゲームに付き合わされ。滅多に外出しない俺にとって見れば中々に体力を消耗した気がする。
溜息をつきながら歩き始める俺の後ろをアリスが追いかける。
「おいおい、つまんねぇ事言うなって。もうちょっと付き合えよ。」
つまらないのはこっちの方だ。
俺の意識を引こうと声をかけてくるが、正直それに付き合う気力も失せた。アリスは俺の願いを叶えるのに必死でそれしか見ちゃいない。言い方が悪いかもしれないが、道楽に一々振り回されるこっちの身にもなって欲しい。
一度イラつけばあとはもう済し崩し的にその感情に自我を奪われていく。
「俺はまだ話したい事があるんだけどな。」
アリスがそう言ったその時だった。ショッピングモールを行きかう人々の合間にちらりと見えたブロンドの髪。小さな少女の後姿。
我が目を疑いながらも視線だけでその姿を追いかける。人ごみの中、まるで俺を誘うようにチラチラとその色を見せるそれは、俺の記憶の中にいる、あの人の姿だった。
「…っ!」
その姿が遠のいてしまうのに気付くと同時に俺は走り出していた。ついさっきまで体力を消耗してしまったと思っていたのに、一体何処から出てきたのかと思う程の力強さで地面を蹴り上げている。そんな俺に慌てた様子でアリスが声をかける。
「お、おい、シロ!?」
突然走り出した俺に訳がわからないといった様子で声をかけてくるが生憎構っている暇は無い。あんな小さい身長ではすぐに見逃してしまう。
人と人の間を縫うようにして進むその姿は、記憶の中と一寸も違わぬ姿だった。好奇心に満ち溢れ、草原を駆けずり、海辺を走り回って、チェス盤の上を横断し、女王の庭すらも我が物顔で駆け抜けたあの姿。
最初は向こうが俺を追っていたはずなのに、いつの間にか俺がその背を追っていた。
「待って下さい!」
時折振り返っては口元に悪戯な笑みを浮かべて俺との距離を確認する。速さを緩めて、後もう少しで捕まえられると思った途端にスピードアップして遠のいて。
小さな笑い声が聞こえた。いつも後ろを追いかける俺に、体力がないと冷やかすように笑うその声。
「…待って…下さいっ」
ただ一人、俺達をありのまま受け入れてくれた人。俺達を俺達として受け入れてくれた人。言葉では説明できない不思議な力で、俺達をいつも幸せにしてくれたあの人。
「待って…」
一度でいい。あの時みたいに笑いながら頭を撫でて欲しい。そうすればこんな下らない願いなんて消し飛んでしまうから。
「待って下さい、アリス…ッ!!」
まるで置いて行かれた子供みたいで、自分でも情けなくなるような声だった。走っていたものだからその声は酷く掠れて、叫んだはずなのに大して響く事もなくかき消されていく。
人ごみの向こう、丁度人のいない空間に佇んだ彼女はいつものように振り向いた。その口元には、子供独特の無邪気な笑みを湛えて。
「アリス…」
他の世界からこの世界へと入ってきた一番最初のお客様。唯一、俺達の住む世界の形を変える事のなかった人。そのまんまでいいと、そう言って笑ってくれた彼女の姿。
それがまるで風に吹かれた蝶の群れのように端の方からバラバラになって背景へと消えていく。
「これが、お前の願いか…」
随分と冷えた声がした。慌てて振り返ると、そこにはどこか納得をしたような顔のアリスが立っていた。その手には彼女の幻影を作り出した蝶のようなものが在る。
それを見て俺は漸く理解した。アリスは俺の願いを知る為に彼女の幻影を造り上げたのだ。願いの輪郭を浮かび上がらせた記憶、初代アリスの記憶を、鮮明なものにする為に。
「…やはり貴方は不躾だ。」
クツクツと喉の奥で笑う自分の声はどこか楽しそうなそんな感覚すら呼び起こす。
「あんな下らない願いを思い出させて満足ですか?…彼女の姿まで使って…。」
苛立ちというのは限界点を超えると一気に冷たくなる。それは怒りに熱された脳天を急激に氷点下まで落としてからゆっくりと脊髄を下りていく。
何とも不快な感覚だ。
「帰ります。」
踵を返す俺。アリスは声をかけなかった…いや、かけられなかったのだろう。今この状況で何を言われようとも俺はきっと耳を傾ける事はできない。すべてがきっと脳を通らずに耳から耳へと抜けてしまうに違いなかった。
初代アリスとの記憶と、下らない願い。両方がアリスの手によって記憶の向こうから引きずり出された。頭が正常に回らなく、苛立ちだけが俺の中をグルグルと腹を減らせた猛獣のように落ち着き無くうろついている。罵詈雑言をアリスに吐きつけなかっただけマシだと、心のそこから安堵するくらいに、今の俺は不安定だった。
「……あ…りす…」
彼女の名前を呟きながら、俺は一人考え込んだ。忘れてしまった記憶には二種類の意味があるのだと今日初めて知ったのだ。一つはどうでもいい記憶、そしてもう一つは。
「っ…」
思い出してはいけない記憶。
思い出さなければ、願いにも気付かなかった。そうすれば俺は今まで通りに口に笑みを浮かべる事もできたし、不平不満を漏らしながらもこの世界に順応する事ができたというのに。それなのに、思い出してしまった。
口が意思とは関係なく動くのを必死に抑えようとして口に手を当てると、傍から見れば吐きそうな人なのだろう、人ごみが俺の周りだけ少し空間を空けている。そんな理由じゃ無いというのに。
あぁ、でも。口から出るかもしれないものは、吐瀉物よりも性質の悪いものに違いない。あの時の記憶なんて思い出さなければ良かった。あんな下らない願いなんて気付かなければよかった。そうすれば『普通』に生きていけたというのに。
殆ど役に立たない脳ながらもきちんと最寄の駅までたどり着いた。買い求めた切符を握り締めてホームに立つ。後は電車に乗って帰ればいい。そして、ベッドに入って忘れてしまえばいいんだ。
油断をすると、毎晩のように口にしていたあの言葉が意味を持って口から這い出ようとする。言葉は意味を持たなければただの記号の羅列に過ぎないが、意味がつけば言葉はガラリとその性質を変える。願いや感情という付加価値が付くと尚更に性質が悪い。
言霊という単語を思い出した。言葉は力を持っていると、チシャ猫がそう言っていた気がする。言葉一つで世界を動かす事も可能だと。だとするならば、この願いが口から出てきたら、それにも力が入ってしまうのだろうか?
…下らない。
こんな願い、力も何もありはしない。それなのに口に出すのがはばかられる。それに意味を持たせて口から吐き出してしまったら、二度と収拾が付かなくなってしまいそうで。
「…下らない。」
そう、言い聞かせる事で言葉を塞ぐ。
ホームに電車が滑り込んできてそれに押し出されるようにして発生した風が俺の髪をぐしゃとかき上げる。それすら、俺の頭を撫でる彼女の手のように思えてしまっているのだから、末期だ。
俺は彼女が好きだった。皆も彼女を同じくらいに愛していたし、彼女もこの世界を愛していた。
一番最初、この世界の形を決める時に彼女は俺達全員をハートの女王の城へと呼び出した。クリクリとしたまん丸な目をキラキラと輝かせながら俺達を見回してからにっこりと笑ってこう言ったのを、今でも良く覚えている。
『姿とか世界とか、このまんまで構わないわ。私、このデタラメな世界と貴方達が気に入ったの。』
彼女としては何気ない一言だったのだろう。そう思ったからそう言ったという、至ってシンプルな言葉だったのだろうが、だからこそ俺はその一言に感動したのだ。
そんな事、彼女以外の人は誰も言ってくれなかった。俺達をそのままの形で見てくれたのは、彼女が最初で最後だったんだ。
だから俺は戸惑った。形を変える事、世界を変える事、俺自身を変える事…だからアリスの思う通りに『演じ』る事にこだわった。自分自身は出さず、あくまでもこれはすべて演技だと言い張る為に。
それなのに、心のどこかではこう思っていた。
「…下らない。」
認めて欲しいと、そんな事だけを、ずっと、ずっと。それこそ毎晩のように言って。いつかそれが叶うといいと心の底で願っていた。
「下らない。」
吐き捨てるように呟いてから発車ベルに押されるように電車に乗り込む。ドアが閉まる頃には、俺の髪を撫でたあの優しい感触は消えていた。


(c)Kyouzaki